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再考『人生を導く五つの目的』──音楽

 過去の本ブログで、この本について感想を綴ってきたところ、英語版にかなりの改訂が施されていたことを発見しました。そこで、どうも腑に落ちない音楽の箇所について、ここでもう一度取り上げ、英語版と比較したいと思います。編集者や翻訳者に必要なのは粘着(執着)気質なもので、しつこくてすみません。

 現行の翻訳と、手元の英語版(03年34刷)とニュアンスが異なると思われる箇所に、英語版の単語を( )内に入れてみます。
「クリスチャン」ミュージックなるものは存在しません。ただ、クリスチャンの歌詞があるだけです。歌を神聖にするのは歌詞であって、曲調(tune)ではありません。霊的旋律(tunes)というものはありません。私がある曲(song)を演奏したとしても、歌詞がなければそれが「クリスチャン」ソングかどうか分かるはずがないでしょう。(P.87)
 tuneは、曲調とも旋律とも訳せるようですが、同じ単語に別な訳語をあてることはあるにしても、すぐ近くの単語の場合は、前を引き継いでいることが多いので、私なら同じ訳語で統一します。
 次にsongを曲と訳していますが、日本語ですと、器楽曲も「曲」に含むので、楽器演奏家からはブーイングがきそうです。ただ、「歌を演奏する」という言い方はあまり聞きませんし、「歌曲」とするとクラシック音楽になってしまうし・・・だから「曲を演奏する」と訳したのでしょうかね。

私訳
「クリスチャン」ミュージックなるものは存在しません。ただ、クリスチャンの歌詞があるだけです。歌を神聖にするのは歌詞であって、旋律(tune)ではありません。霊的旋律(tunes)というものはありません。私がある歌(song)を演奏したとしても、歌詞がなければそれが「クリスチャン」ソング(歌)かどうか分かるはずがないでしょう。
 聖書的でないスタイルの音楽というものはありません(But there is no biblical style ! )。聖書の中に楽譜は載っていませんし、聖書の時代に使われていた楽器を、今現在私たちは持っていないのです。(P.86)
 邦訳によると、二重否定になっていて、つまるところ「あらゆるスタイルの音楽は聖書的です」という意味になりませんか。するとここは誤訳?

私訳
 聖書的スタイルの音楽というものはありません。聖書の中に楽譜は載っていませんし、聖書の時代に使われていた楽器を、今現在私たちは持っていないのです。
 神に喜ばれる礼拝というのは、情熱的(deeply emotional)であると同時に教理的(deeply doctrinal)でもあるべき(is)なのです。〈略〉心も頭も動員する必要があるのです。〈略〉本当の礼拝は、あなたの霊が神に応答することによって成立する(happens)のであって、ある音楽のメロディ(tone)に応答して成立するのではありません。(p136)
 原文は、「べき」というニュアンスはありません。トーンという言葉を何て訳すか、むずかしいところ。いろんな意味がありそうなのです。この場合は、何でしょう。私は邦訳の「メロディ(旋律)」というより、「音響」ではないかと思います。

私訳
 神に喜ばれる礼拝というのは、きわめて感情的(deeply emotional)であると同時にきわめて教理的(deeply doctrinal)でもあります(is)。〈略〉心も頭も動員する必要があるのです。〈略〉本当の礼拝は、あなたの霊が神に応答することによって生じる(happens)のであって、音の響き(tone)によって生じるのではありません。(原文102頁)

 あんまり変わりませんかね? 少しすっきりしましたか? 私も間違っているかも知れません。(私訳は自信作ということではなく、参考に供するためです。)
 ここで分かったことは、主観的な感覚に大きくかかわる音楽用語を訳すのは難儀だということでした。

祈り:音楽というあなたからの素晴らしい恵みを感謝します。私たちを慰め、感動を与えてくれます。知性と感情のすべてによって、あなたに近づくことができますように。