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「見る」ということ

 プーシキン美術館展を訪れて、たくさん「見る」ということをしてきました。また、マチスとの関係で、「イコン」という話題が出たので、ナウエンがイコンについて述べている箇所が思い浮かびました。そこで、以下に引いてみたいと思います。いずれもナウエン著『明日への道』からの引用です。「見る」ということの霊的な意味について、たっぷりと教えてくれます。
「見る」ということへのナウエンの関心
〈略〉「聞く」ことよりも、「見る」ことについて、より関心を抱くようになった。〈略〉言葉で伝えられないたくさんのことを、視角は捕らえることができる。言葉で表せない多くのことを顔で示すことができる。〈略〉目の方が、口よりもずっと多くのことを語ることがある。〈略〉

 福音書で、「見る」と「聞く」という言葉は、もっとも多く使われている。イエスは弟子たちに次のように言った。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです」(マタイ13:16-17)。

 神を見、聞くことは、私たちが受け取ることのできる最大の恵みだ。二つとも知るための手段だが、聖書全体からすると、神を見るということのほうが、はるかに親しみや個人的な関係を感じる。〈略〉見ることのほうが、聞くことよりもずっと良い。それは、はるかに近いということを意味する。
    (見ることと聞くこと 12月9日──『明日への道』138頁)

イコンについて
 イコンは、教会や家庭を飾る聖画というだけのものではない。それは、聖なるものに私たちを触れさせる、キリストと聖人のイメージであり、超越的なものをかいま見させてくれる窓だ。崇敬の念と祈りをもって近づかねばならない。そうしてのみ初めて、イコンが表わそうとする神秘が明らかになる。

 聖像画は、東方正教会の伝統、とくにロシアとギリシャから西欧に持ち込まれた。一九一七年のロシア革命以来、〈略〉徐々にラテン系教会に知られ、評価されるようになった。ロシアとギリシャのイコンは、私自身の祈りの生活にもっとも重要な霊感をもたらす源の一つとなった。『ウラジーミルの聖母』、ルブリョフ(中世ロシアの有名なイコン画家)が描いた『聖三位一体』、そしてエルサレムで手に入れた十九世紀のギリシャのキリスト像が、私の祈りの生活と切り離せないものになった。〈略〉イコンは確かに、正教会が西欧の教会へもたらした、もっとも美しい贈り物の一つだ。
             (イコンと聖像画 9月15日『同』47頁)

黙想:イエスのまなざし
 言葉で表わすのが不可能であるかのようなそのイコン(注:ルブリョフ作『救世主キリスト』)を、きょうの午後ただじっと見つめていた。私はイエスの目を見つめたが、イエスの目が私を見つめているかのようだった。私は息が詰まり、目を閉じ、祈り始めた。「ああ、神よ、あなたの御顔についてどう書いたらよいでしょう。どうか語るべき言葉を与えてください」

〈略〉ルブリョフ作のキリストのイコンついて、書かねばならないことは分かっている。これまで見たどのイコンより心動かされたからだ。それを見つめているとき、それと共に祈るとき、自分の内に何が起こっているかをぜひ知りたい。〈略〉私のすべきことは、その前に単純に自分を置くこと、そして祈り、見つめ、祈り、待ち、祈り、信頼することだ。適切な言葉が浮かぶようにと願っている。そうなれば、多くの人が私と共に見るようになり、またその人たちの目で私を見てもらえるだろう。        (キリストをみつめる 10月26日『同』90頁)

ナウエンの祈り
 おお、主イエスよ。私はあなたを見つめています。私の目はあなたの目に注がれています。あなたの目は、神の永遠の神秘を見通し、神の栄光を見ています。その目はまた、シモンを、アンドレを、ナタナエルを、レビを見つめた目、長血を患った女を、ナインのやもめを、盲目の人を、足の不自由な人を、重い皮膚病の人を、腹をすかせた群衆を見た目であり、悲しんだ富める役人を、湖の上で恐れた弟子たちを、墓で嘆いている女たちを見た目です。

 あなたの目は、おお、主よ、一度の眼差しで、神の尽きない愛と、人間の果てしない苦悩を見ています。神の愛に対する信仰を失い、飼う者のない羊のようなありさまになった人間すべての苦悩を見ています。

 あなたの目を見つめていると、私はおびえます。炎のように私の心の中心を貫くからです。しかし同時に、私は慰めを受けます。その炎は私を清め、癒してくれるからです。あなたの目はとても厳しいですが、愛に満ちています。すべてをさらけ出しますが、守ってくれます。私を刺し通しますが、配慮してくれます。理解しがたいですが、親しみに満ちています。近づきがたいですが、招いてくださっています。

 あなたに見守られていたいという願いが私にあることに、だんだんと気づきました。あなたの配慮に満ちた眼差しのもとに住みたい、あなたの視線に捕らえられて、強く優しくなりたい。主よ、あなたの見ているもの──神の愛と人々の苦悩──を見させてください。そうして私の眼差しが、傷ついた心を癒すあなたの眼差しに似たものに変えられていきますように。
   (見るための、また見られるための祈り 10月28日『同』91頁)
 素晴らしい内容の祈りですね。ルブリョフ作のイコンを見ながら浮かんできた祈りです。神に親しく、近くいたいという彼の渇望と情熱がと伝わってくるようです。(『明日への道』は現在品切中)

 わたしが初めて画集などでイコンを見たとき、かなりとまどいがありました。「何だこれ? かなり異質だし、気味の悪いところがある。ほこりをかぶった骨董品だ。ビザンチン美術だって? 小さいころ見た仏画と似ているし、これって偶像礼拝にならないのだろうか?」と・・・。
 でも考えみると、プロテスタント側にもイエスや弟子たちを描いた油絵やイラストがありますよね。最近は、マンガ『聖書物語』もできているくらい。マンガに描かれているイエス像を見て、その絵そのものを礼拝したいとは誰も思わないでしょう。楽しんでそこに描かれている内容を読むはずです。

 イコンは、そのものを礼拝するのでなく、それをきっかけに、それを越えた霊的な神の存在をかいま見るための「窓」なんだとか(イコンの理解<受肉の信仰>百瀬神父)。長い教会史のなかで論争が何度もあって、粛正されたり、また復活したりと、数奇な運命にさらされてきました。しかし、先の20世紀、ふたたびその価値が発見されたのですね。たしかに、もっとも有名なイコン作家ルブリョフのものは、物真似でなく、独自の味があり、不思議と魅入られるものがあります。とくに『聖三位一体』の、典雅さというか、優美さというか・・。
 しかし、あくまでも「窓」に過ぎませんので、不慣れな方(?)はご注意を。