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賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか(3)

賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか(3)_e0079743_15161135.jpg 当時のキリスト教会は彼の働きを無視した
 賀川の神学的立場は、「賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか(2)」で説明した自由神学のようです。すなわち(聖書を批判的に見たかどうかは分かりませんが)、科学思想、社会思想なども、よいと思われれば取り入れます。それは、マルクス主義、労働運動、進化論(社会進化論)などですが、科学者でも、学者でもない彼は、厳密に理解していたというより、我流で理解していったようです。

 しかし、あくまでキリスト者としての信仰、生き方を貫いたために、賀川が創設した労働運動などで、しだいに指導権を握っていく非キリスト者の急進的左翼思想家から、批判を受け、距離もとられ、影響力を失っていきます。

 また彼が当時の教会という権威(簡単に言えば、教団の牧師、神学者)の下で動かなかったので、教会指導者は、彼独自の運動として見なし、距離とるわけです。彼は牧師なのか、伝道者なのか、社会活動家なのか、はっきりしないことも、原因がありました。

 賀川側は、当時、日本にかなりの貧困層があり、苦しんでいる人々がいるのに、そこに福音を伝えたり、その苦難から解放するという宣教を教会があまりしなかったことを批判します。彼は、「神の国」は、抑圧された、貧しい人々に中に実現するという、聖書の預言的、開放的メッセージを実際に現場に入り込んでで実行しようとしました。

 神学は、貧しい人々の中から生まれると信じ、公務員、官吏、教師、会社員という都会の中産階級の宗教と化した、個人主義的キリスト教と教会を、自分の働きの場と考えませんでした。

強烈な賀川の言葉
「今日の教会には一向に行きたい気がしない。感傷的(センチメンタル)な連中のみが徒に多くて、少しも心を引きつけられない」
 
「見よ、神は最微者のなかに存す。神は監獄の囚人の中に、塵箱の中に座る不良少年の中に、門前に食を乞う乞食(原文ママ)の中に、施療所に群がる患者の中に、無料職業紹介所の前に立ち並ぶ失業者の中に、誠の神はいるのではないか」

「売春婦、浮浪者のなかに傷を負ったイエスの姿を見る」

「福音とは解放ということで、それは罪よりの解放である。罪とは精神的罪、心理的罪、経済的罪、肉体的罪、社会的罪で、(聖書は)その凡ての罪に対する解放の福音書である」

「信仰とは主知的に教条を鵜呑みにすることではない」

 これに対し、明治大正時代のキリスト教会の実力者で、今も彼についての著作が毎年出版され、尊敬されている正統派の中心人物、植村正久牧師は、こう言ったそうです。

「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」

 これは当時も今も、傲慢にして、ひどい発言だと思います。それは、ふいに口を出たその場だけの言葉なのか、植村の生涯に一貫した思想なのか、調べてみる価値がありそうです。

 さらに、「自由主義神学」に鋭い批判の目を向けるカール・バルトによる「新正統主義」が、日本の主流派教会の神学の主流となったとき、人間の努力による社会改良を目指すかのような賀川の思想は、「人間中心主義」「人間や文化の発展に対し楽観的過ぎる(自由主義)」「未熟な理想主義」と見られていきます。

 栗林氏は、「実に賀川こそ日本の最初の解放神学者だった。にもかかわらず、日本のキリスト教会は、彼を高く評価してこなかった。いや、葬り去った」「(彼は当時の)教会に目障りであり、鬱陶しくもあったからである」と記しています。(『at』15号 p.54)

 今では社会活動を活発に行っていることで知られる(そうとばかりと見られがちな)メインラインの正統派キリスト教会が、当時は、そんなだったのでしょうか?

 ここ20年くらいの間に、日本の主流派教会の指導層が評価している「解放の神学」。それを、日本から遥かに遠い中南米の圧制と貧困の中で命を賭けて闘ったカトリック司祭から学んでいます。しかし、自らが属する教団の先輩たちは、目の前の同じ信仰にある兄弟、日本での最初の解放の神学の先駆者・賀川豊彦を遠ざけたとは。世代が変わったことで、態度がガラッと変わったのでしょうか。