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ビジョンとは何か_e0079743_1824446.jpg 前記事で、「ビジョン」に触れましたが、少し前、『ザ・ビジョン』(ダイアモンド社)といいう本を手にしました。『一分間マネージャー』などの著作で有名な、ケン・ブランチャード 共著によるもので、読みやすいストーリー仕立て。厚さも、読みやすさも手頃。
 創業者の父から事業を受け継いだ二代目社長が、いかに創業者に劣らない会社の活力と社員のやる気を引き出すかという奮闘を描いています。

 そのために、「ビジョン」を明確にし、それを社内に浸透させる流れで物語が進みます。「そんなにうまくいくか?」という疑問はあるにしても、とんとん拍子でことが進みます。この本の狙いは、意味のある、機能する「ビジョン」ということを、分かりやすく読者に伝達することです。
 そこから教えられたことにそって、以下を記述します。

なぜビジョンなのか
 納得できたのは、なぜビジョンを必要とするか。会社が一応、安定し、さらにリーダーシップの交代があるとき、「創業者の影響力、人間力、魅力、カリスマ性に依存しない」活力が求められます。
 「私たちは何であり、この世界でどのような貢献が求められているのか」を全員が共有できるかどうかが問題になってくるわけです。
 個人の影響力から脱却し、いかに組織を有機的に発展させ、潜在能力を発揮させ、個々の構成員に、生きがい、使命を与えるために、「ビジョン」が必要になってくるということです。

 これに対し、ある強烈な個人が「幻(ビジョン)」「預言」「夢」「啓示」をかかげ、「俺についてこい」式に組織(教会)をひっぱっていくことがあります。そこには指導者の願望の実現、独裁、メンバーの利用が入りこむ余地があります。この点は、村上牧師のブログ記事が興味深い考察を深めています。「村上牧師ブログ 啓示」

 しかし、本当のビジョンとは、個人の指導力やカリスマ、個人の自己実現、煽動に依存しない、「キリストの民(共同体)が抱く夢であり、幻であり、展望」なのです。指導者はそれを代弁しているに過ぎません。

ビジョンとは何か
 ヴィジョンとは、言葉からも分かるように、かなり視覚的なものであることが分かります。これは聖書の黙示録にふんだんに散りばめられていて(1章、21章など)「聞いた」「見た」など、非常に視覚的な記述がいっぱいです。

 本書では、歴史を変えた有名なヴィジョン、世界を動かしたビジョンとして、M.L.キング牧師、ケネディ大統領の宣言を取り上げています。

 「仮に困難が待ち受けていようとも私には夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした、ひとつの夢です。私には夢がある。 「万人は生まれながらにして平等である。これが自明の理であることをここに保証する」、この国家の基本理念(Creed)を真の意味によって実現する日が来るという夢が。(以下、映像では少し欠けがある様子)
 私には夢がある。いつか、ジョージアの赤土の丘に元奴隷の息子たちと元奴隷所有者の息子たちが一緒に座り、友愛のテーブルを囲む日が来るという夢が。
 私には夢がある。いつか、あの差別の熱にうだるミシシッピー州さえもが自由と正義のオアシスに変わる日が来るという夢が。私には夢がある。いつか、私の子どもたち4人が肌の色でなく中身で判断される、そんな国に住む日が必ずくる。
 私には夢がある。 差別主義者がはびこるアラバマ、知事は口を開けば州権優位、実施拒否で忙しい、そんなアラバマにもいつかきっと、幼い黒人の少年少女が幼い白人の少年少女と手と手を取り合って兄弟のように仲睦まじく暮らしていける日が来るという夢が」→引用先 全文 演説映像16分


 今でも身体に震えがきそうな、なんと壮大で、感動的な「ビジョン」でしょうか!

 ビジョンとは、未来に実現するだろう風景が、あたかも現在の私たちの目の前で、リアルに展開して見えるかのような展望のこと。私たちはそれに心の奥底から感動し、動機づけられ、何らかのアクションを呼び起こさずにおれない。

ビジョンを短い言葉で表したものが「スローガン(標語)」
 この風景、将来への見通しを、短い言葉で表したものが「スローガン」です。そこで、数値的なものを上げることが多いですが、それは、その先に見える風景を含むものであることが大事です。
 数値達成に人生をかけたい人は、途中で、精神的、霊的枯渇を招くでしょう。

 「1000人教会」「この地域に10の教会を」という数値目標スローガンは大きなチャレンジで、勇気を与えますが、「それでどうしたいのか、それがどうなって欲しいのか」がなければ、「魂」が脱落します。単に10個の教会堂(入れ物)を建てて満足という意味ではないでしょう。その「魂」が脱落していないものが、「単なるスローガンに終わらないビジョン」と言われるもの。

 その「数値目標」は、富士の頂上(ビジョン)に到達しようとするときの、五合目に相当する目印。「単にスローガンに終わらないビジョン」であるためには、ふもとから眺めた五合目のかなたに、頂上が重なって見える必要があります。
 そのときはじめて、数字は人を動かすものになります。
近年、出色の現代教会論_e0079743_1571626.gif感動の教会論
 しばらく前に読んで大変感心、感動した「現代教会論」のブログ記事があります。といっても、私にそんな評価ができるほどの権威も見識もなく、いくつかの教会生活を続けて「〜十年」という単なる信徒に過ぎません。あくまで、「私がそう思う」というだけの話ですが。

 私が「抜群」「出色」と思った、「近未来のあるべき教会の姿の一つ」を紹介くださったのは、このブログもリンクを張っている「小さな命を守る会」の水谷牧師です。
 
 最下段にリンクを張った二つの記事をお読みください。また、それぞれの記事には他の記事にリングがあり、それらを含めるとかなり量ですが、少なくても「牧師と信徒これが見本かも(1)(2)(3)」は読んだほうがいいと思います。

 これを読んで私はさっそく、「リバイバル・ジャパン」誌の取材記事が載っている9月15日号を買いに走りました。(現在、ネットで全文読めてしまいますが。) リバシンさん、これらを記事にしてくださってありがとう。

言葉の迷宮 
 そして、「ふむ、ふむ」と思わせる気づきがありました。それはおもに、「ビジョン(展望、幻、夢)」「コアバリュー(価値観)」「共有」「スローガン」「使命(ミッション)」「目的」「目標」「計画」「方策(戦略)」などが、有機的に機能しているのかもしれないという点です。

 ただ、それらの定義について、なかなか教会内で論じられることないので、キリスト者共同体の間でも共通認識がないようで、使用方法が混乱、あるいは曖昧に思えてなりません。だから、こうした話題は、分かるようで、なかなか明瞭には分からない。

 大事だとは分かるのですが(「目的主導の教会」という言葉もよく聞きます)、各自、さまざまな定義、感覚、主観で使っている模様なので、何を指して言っているんだか不明瞭なまま話題が進みます。ですから、議論も不毛に終わる気がしてなりません。きっと「外国から入ってきた用語、概念」だからなんでしょうね。

「ビジョン」てなんですか?
 「あなたのビジョンはなんですか?」「あなたの教会のビジョンは?」と、ときどき話題になりますが、これって、なんなのでしょう? 何を指して「ビジョン」と言うのでしょう。なんで日本語でないのでしょう? 現代経営学の手法でしょうか? それとも健全なツールでしょうか? 「ビジョン」と「目的」と「価値」と「使命」「ミッション」の関係は? それとも、そんなことごちゃごちゃ言わんと、何となく伝わればいいの? そこに何か異質なものが紛れ込んでしまわないか? 「誰か交通整理して〜!!」と叫びたい思いです。

 そういう迷いにあった私は、これらの定義をすっきりまとめてくれたビジネス書と最近、出会いました(ビジネス書に頼らねばならないのですね〜)。なので、それを題材に自分のためにも、これらをすっきり整理するため、今後何度かブログ記事を書いてみたいと思います。(と言いながら、スローライフ実践中でして、あくまで希望ですので、あまり期待しないでね。)

小さな命を守る会ブログ
本ブログ紹介の教会が「リバジャパ」に掲載
聖書的リーダーシップについてもう一言
ガンジーがたどった道_e0079743_2221324.jpg 暴力や憎しみの連鎖がさらなる大規模な暴力を生み出しそうな予感がする現代。
 いつか録画していた映画『ガンジー』(監督:アッテンボロー)をふと思い出して見始めた。

 自分の始めた非暴力、不服従(無抵抗主義ではないという)が脱線し、暴動が全インドに広がろうかというとき、彼はその沈静化を願って、自分の体を痛めつける「断食」という手段に出る。
 そのとき、横たわって弱りきった体から絞り出すように側近に語った言葉に、心がとまった。


 私は絶望に陥ったとき、人類の歴史を思いめぐらす。
 勝つのはいつも真実と愛だ。
 暴君と殺りく者は一時は無敵に見えても、結局は滅びてしまう。
 そのことを忘れてはならない。
 
 それが本当に神の道かと迷ったとき、正しい道だろうかと迷ったとき、
 歴史を思い出し、神の道を見いだすのだ。


 暴動や戦争、国際紛争が起こりそうなとき、かつてM.L.キング牧師やガンジーがいたことを忘れてしまう私たち。彼らとて人間なので、汚点を探したら私たち同様あるだろう。
 しかし、それでも彼らが命をかけて人類に伝えたメッセージに思いを向けないなら、歴史に示した神からの大事なメッセージを見失ってしまうかもしれない。

 アジア人であり、キリスト者以上にイエス・キリストの精神に従って生き抜いたかに見える人、ガンジー。彼の思想のすべてに同意しているわけでなく、私生活は疑問に思うこともある。しかし、私に勇気はないけれど、彼の生きた道の普遍的な面の回復、復興を願う。


インドの経済的自立への手段
 ガンジーの経済復興の手段の一つは、着物を自分たちで手作り出すこと。

 当時、イギリスの工場(インド内かイギリス本土内かは不明)で作られた美しい上質な着物をインド人たちも買って着用していた。そのおかげで、国内産業は衰え、イギリスの経済に依存するようになった。
 そこで、ガンジーは率先して英国製の美しい着物を拒否し、そのかわり自分で綿花を紡ぎ、素朴な着物作りを実践した。それで国内産業を興そうとした。

 では、現在の日本や米国はどうか。安い労賃を利用した良質な製品を中国で生産し、国内の失業者を増やし、経済格差を広げる結果になっている。一部の企業家が大もうけし、富が偏っている。
 これが自由経済なのだという。

 私も安い中国製品を利用している。では、高い国内産の製品を買ってまで産業を興そうとするだろうか。それは経済力が許さない。不器用な自分が作った着物を着て仕事にでかけるだろうか? そう簡単には行かない。
 
 では、「みすぼらしい生活は周りに迷惑をかける。複雑な時代になってしまった」と、諦めるほかないのか?
 ガンジーは、とてつもないチャレンジを、現代も私たちに投げかけている。
 9.11の暴挙に抗議して「コーラン」を公開焼却すると明言し、インターネットで同調を呼びかけた米国南部の牧師への波紋が世界に広がり、世界をゆるがせかねない問題となっている。

 なんともばからしい、失礼なことをするものだ。アジアのキリスト者なら(原理主義者であっても)こうした発想はしないのではないか。しかも、昨日のニュースによると会員が50名ほどの、アメリカではごく小さな教会の牧師の行動だというではないか。テレビニュースでは本人の姿も登場していた。

 インターネットの普及もあってか、大小に関係なく、こうした常規を逸した行動、発言に責任を問われる時代になった。

 オバマ大統領も、クリントン国務長官も、バチカンも、「こうした無礼な抗議行動は、対立と暴力を生み出すだけだ」と警告を与えている。
 
 下あげたリンク先の最初は、この教会は福音派に属すると知らせ、福音派とは何かの説明も加えている。私も属する福音派にとって、迷惑な話だ。すぐに撤回して欲しい。

 どうしてこうした発想が出るのか。9.11事件への耐え難い怒り、悲しみは分かるが、こうした行動に踏み切るとはあきれた。

11日に教会がコーラン焼却計画 米政府が中止要請

コーラン焼却 教会「撤回しない」へ世界の反響

中止発表も撤回、「やはり止めない」 延期か