<   2008年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

e0079743_11432017.jpg 先の日曜日の午後、子供会主催の「盆踊り大会」でボランティアをしました。

 会場は近くの中学校の校庭ですが、四つくらいの町の合同なので、かなりの人が集まりました。奉仕者は若いお母さんが多く、恥ずかしかったですが、ふだんあまり住民との触れ合いがないので、よい機会でした。

父親が少ない奉仕
 奉仕者は、午後3時に集合。打ち合せをして各部署に配置され、4時からテントの店の開店です。黒一点の私はおもちゃ売り場でしたが、哀れに思われたのか、お母さん方がやりずらいと思ったのか(笑)、「射的の店」に配置転換してくれました。そこには男性がもう一人いたので、過ごしやすかったです。


 どのお店も大繁盛。肝心の盆踊りはあまり人がいなくて、婦人会がたまに踊るくらい。櫓の上では、若者やおじさんたちが太鼓を叩いて盛り上げ役。ごくろうさまです。「どらえもん音頭」「オバQ音頭」とか、「きよしのズンドコ節」とかが、次々と流れます。

 私はハーフパンツ、「これでなきゃカッコ悪いからだめ」という妻指定のTシャツ、野球帽にボランティアを意味するエプロンという出で立ちでした(笑)。

e0079743_11433268.jpg射的というお仕事
 私も子供のとき夢中になった射的のほうは大人気。列がとぎれません。曇っていたからよかったですが、蒸し暑い中、立ちっぱなしの仕事でした。他の二人のお母さんは、お金を管理する役と賞品を渡す役。男性二人は、お金と引き換えに(百円)、コルクの弾が五個は入った紙コップを渡します。そして、弾が当たって的がおっこちると、拾い上げて棚にまた並べます。飛び散ったコルクも、間をみて地面から拾い上げて収集。

 当たるように励ましたり、命中したときは祝福の声をかけたり、懸賞を受け取るように案内したり、しゃがんだり、的を並べなおしたりと、引っ切りなしの数時間。けっこうきつかったです。開店時間は夜9時ですが、賞品が品切れになったため、8時で閉店としました。ふ〜、ばんざ〜い。

 写真は一部だけ映ってますが、人数は「こんなに子供がいるの?」というくらい、もっともっと集まりました。

 ボランティアの父母には、清涼飲料水二個、弁当、缶ビール一個の配給がありました。疲れたけれど、子供たちの健全な良い思い出となったらうれしいんですが。
[PR]
 本ブログは、事件やスキャンダル、カルト化問題を追及する目的で設けているのではありませんが、まったく触れないというのも変なので、少し話題に。

 四月にAERAの記事についての所感を掲載しました。
「霊的指導者の性的犯罪」(link)e0079743_16432958.jpg 
 今週号にまた、第二弾とも言える、「キリスト教会のカルト化」の記事(4頁)が載りました。ほんとは、目をそむけたい気持ちですが、こうした事実をしっかり見つめなければ未来は危うい、とも思います。

 ここで、真の教会のあり方、リーダーシップのあり方を、再確認するのもいいのではないでしょうか。

 記事の小見出しは、

「牧師絶対の小王国」
「病気は悪霊の仕業」
「牧師への批判は不信仰」
「信頼につけこむ牧師」
「カウンセラー装う牧師」
 ・・・・・・・・
 ・・・・・・・・
など、痛烈です。これらは、ほとんどの正統的なキリスト教会にあてはまらず、ごく一部の例外的な教会のことなのですが、被害者が出ている自称キリスト教会があることは事実。浜松、沖縄、北海道のある教会が取り上げられています。

「カルト」とまでは断定できなくても、「カルト化」したとして、その不正、犯罪性が指摘されています。

記事の一部の引用
 以下、私にとって心に留まった言葉を記事からピックアップして少しだけ引用。( )内は私のコメント。

記者「単立でも健全な教会は多いし(略)、教団所属でも深刻な人権侵害が起きているところもある。ただ、単立教会はチェックの目が入りにくいぶん、牧師に問題行動があるとエスカレートしやすい」
(単立は牧師中心になりやすい傾向があると言われているので、キリスト中心、聖書中心にしていくことが、当たり前だけど重要。教会政治は監督制か、長老制か、会衆制かを最初から明確するのも大切では。)

カルト化教会の牧師「『病気は悪霊の仕業だ』『祈れば必ず治る』『病院に行ったり、薬を使ったりするのは神に対する裏切りだ』『(病気が治らないのは)君の不信仰だよ。もっと祈り、もっと悔い改めなさい』」
(極端に聖書の教えをねじ曲げている。)

記者「教会の門を初めてくぐるとき、聖書の存在は知っていても、中身についての知識をもたない人は少なくない。(略)彼らにとっては、最初の牧師の口から語られる教えが真理となりがちだ。牧師は他の教会関係者との交流を禁じ、読書を制限するなどし、信者を極度の視野狭窄(しやきょうさく)に陥らせる。教会関連の仕事(奉仕)を次々と命じ、考える時間を与えない場合も多い」
(自分の教会だけが最高で、他はだめ、他とつきなうな、つきあっているあなたは信用できないという雰囲気の教会(排他主義)は危険度が高い。ただ、自分が所属する教会への協力をあまりに怠るのも考えもの。)

記者「信徒は、牧師に批判的な考えをもつことは不信仰だと考え、理不尽なことが身に降りかかっても、非は自分にあると思う」
「信仰が足りないという牧師の言葉を素直に受け入れ、牧師への忠誠を一層強めていく」
(改善への提案をしたり、牧師、指導者へのたまの意見をしたとき、「批判だ」と言い、従順のみを強調し、押さえつけるところは要注意)

識者の言葉(社会心理学者 西田准教授)「『自己否定せよ』『自分を神に捧げよ』と指示し、さもないと『救われない』『幸せになれない』と説く」
「宗教は本来、心を解放するものなのに、こうしろ、あれはいけない、と逆に縛り付つける。解放するように見せかけながら縛っていくのが、カルトの本質だ」
(最初は、救いは行いではないと伝道し、信じてからは、信仰の深まりよりは、行い(奉仕)で信徒を評価しようとする指導者に要注意。)

識者の言葉(北海道大学大学院教授 櫻井教授)「まず、牧師の言うことであってもむやみに従わず、自分の頭で考え、納得したうえで信仰をもつこと。(略)一番しっくり行くところ(教会)を選ぶのも賢明だ。そうした行動を不信仰と呼ぶ牧師がいたら、その教会はやめたほうがいい」
(励ますつもりかもしれないが、「信仰が弱い!」「不信仰だ!」と言って、信徒を叱責する勇ましい指導者が、少し昔まで、日本にわりといたように思う。信仰も神から与えられるものなのにね。
 こうした叱責は、「恵み」についての理解が一般的に難しいことによるが、逆に日本的な自力本願の精神文化にしっくりくるから、やっかい。)

 ほとんどの正統的なキリスト教会は健全で、問題は少ないですし、牧師さんたちも信頼できる人がほとんどです。だから、日本で信徒が少ないままで留まっているし、教会も経済的に貧しいとも言える、というところが悲しい。

聖書に帰ろう
 こう見てくると、改めて教えられるのは、健全な教会に所属していたとしても、自分で聖書をひもとき、自分の目で聖書を学び、ふだんから読み続けることの大切さです。

 そのために、牧師や経験ある指導者からアドバイスを受けたり、小グループで学んだり、よい説教を聞いたり、また、聖書をまんべんなく読んだり、不明な箇所は質問したりすることでしょう。

 救いや、教会についてなどの理解や教理は、「ローマ書」「ガラテヤ書」「エペソ書」等の教えをよく知って、教会と自分自身のあり方を点検してみることが肝要だと思います。
[PR]
e0079743_18371862.jpg 暑くなりましたね。猛暑です。

 今、わが社では年に一度の決算期。落ち着かない日々でしたが、作業の峠は越しました。税理士さんと何度もメールでやりとしし、どうやら決算もまとまりそう。

 一年に一度の締めくくり。いいですね。(内容がよければ言うことなしだが・・。汗)

 さて、数ヶ月前から、新聞購読を止めてみました。ネットとテレビで主要ニュースは知ることができるから、と。
 でも、文化、芸術、健康、思想、評論関係の記事と縁遠くなった。残念。

有名な宗教学者の番組
e0079743_18182025.jpg そこで、たまにテレビでの文化講演やインタビューを録画して聞くことがあります。

 今回は、宗教学者の山折哲雄氏へのインタビュー番組を見ました。日本人の宗教観、心の問題を、文化、歴史をとおして読み解いている方です。(ご本人は多神論、汎神論支持者)

以下は、発言のごく一部の要旨(私なりのまとめ。正確な再現ではありません。)

山折氏:戦後60年、個人の自律、個人の確立、個性の発揮が強調されてきた。
「個」「個性」「個人」と言われているが、それはヨーロッパの近代社会が築いてきた価値観であって、いまだに翻訳の域を出ない。「コ、コ、コ」と、ニワトリではあるまいし(笑)。

 平等主義、横並び主義で水平的な意識は教えてきたが、垂直的な意識が、戦後の日本人に教えられていない。だから、師弟、親子の関係など、垂直的な意識が成立せず、まるで友だちのような付き合いになっている。
 一対一で、師匠から教えを受ける縦軸。師を前にしてひとりで対面し、深く受容するという関係がなかなか成立しない。

 近代ヨーロッパが作った「個」に対応する日本語や、日本の精神文化のなかに「個」に対応する認識があるはず。

 大和言葉に「個」を表す言葉で「ひとり」というのがある。「ひとり」が出てくる最古の文献は『万葉集』。

万葉集に「ひとり」が登場

「あしびきの 山鳥の尾の  しだり尾の
 ながながし夜を  ひとりかも寝む」
           柿本人麻呂(「万葉集」後に「百人一首」に収録)
 (意味:山鳥の尾のように長い長い夜を、ひとり寂しく寝るのだなぁ。恋歌。)

山折氏:「ひとり」で深く考える。恋人と離れて孤独だし、悲しみに耐えながら、自分ひとりであることをみつめ、受け止め、詠っている。

中世になると親鸞が登場
「弥陀の五劫思唯(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなりけり」
                           (『歎異抄』)

山折氏:すべての人を救う救済が、あまねく人の上に注がれているが、深く考えてみれば、自分ひとりだけに注がれているように思えるし、そう受け止めたいものだ、と親鸞はとらえている。

 こういう精神文化は日本人のなかにある。そして、「個人」とは、タテとヨコの関係のなかで、立体的に考えるべきだ。そこで、「個」と「ひとり」を重ね合わせて、教えていくことが大切。

(番組解説終わり)

 なるほどね〜。ここで言われていることは、近年、キリスト者もよく理解していることであり、むしろ得意分野でもあると思います。(質や方向がまったく違うとはいえ。)

 万葉集で人麻呂が言っている「ひとり」は、「ロンリネス」(寂しい孤独)のことでしょう。

 親鸞の「ひとり」は、これこそ「ソリチュード」(豊かな孤独)だな〜。

 親鸞の「よくよく案ずれば」とは、「メディテーション」「黙想」「瞑想」に匹敵すると言えそう。

 仏教(浄土真宗)と聖書が示すものは、精神、心を向ける対象がまったく違うので、そこから生まれる自己認識もまったく異なってくるでしょうし、それがもたらす実も違ってくるのですが、部分的に類似点があるのは知られています。
 でも、人格的な絶対者、超越者、また、どこまでも人間となった存在者、キリスト教におけるイエスのような存在はなく、聖なる存在との関係は持てないないのだから、救いはどこに? まあ、このへんは、仏教を研究している牧師さんの著作で学ぶしかなさそう。

 現代人に必要な垂直軸を復興することが大切だとする山折氏の仏教側からの知恵は、キリストの十字架が示す、タテとヨコに組まれた柱の意味の霊的解釈に通じるものがあって興味深い。キリスト教界では、すでにずっと前から実現しているのだが・・。

 ただ、親鸞の伝統があるとはいえ、日本語の「ひとり」は、「ソリチュード」という、もう一つの「ひとり」の意味を明示できないところが、いまだに弱点と言えそう。

e0079743_18384147.jpg

[PR]
e0079743_13551222.jpg 毎日、パソコンの画面を見つめている。視力は年と共にますます悪くなっている。

 何か対策をと思うものの、長時間使用を強いられている今の生活は、工夫を積み重ねるくらいしかない。

 そこで、最近のニュースを発見。知っていることも多いけれど、

ディスプレイを“正しく”使えば疲労は減る(Link)

 これは、もう一度考え直すきっかけになる。

 「明るさを調節することで負担を軽くする」

 この点はあまり意識していなかった。紙を見るくらいの明るさががいいのだとか。

 それから、姿勢についての言及があった。

 「イスに深く腰をかけて背もたれに十分背をあて、背を伸ばし、座面の先端とヒザの裏にすき間があり、靴底の全体が床に接した状態が基本だ」

 「同じ姿勢を長時間続けると筋肉が緊張して負担がかかるため、ときどき腰や足の位置を変えて無理のない姿勢を保つのがいい」

 「1時間の連続作業の間に10分程度の休止時間」

 なかなかできないこともあるけれど、なるほど。少しずつ実行してみたい。


 それから、私の大予言!(勝手な仮説、推測。笑)

 発表します!

 「現代人にうつ病が増えている大きな原因の一つは、ディスプレイを夜昼なく、長時間見つめることで、脳内に影響を及ぼした結果ではないか?」。交感神経、幅交感神経が正常に入れ替わることを阻害することからくるのではないか?
 (あくまで、素人の無責任な推測で〜す。)

 何年後に、あるいは十数年後に、学者が「うつ病の蔓延の原因の一つは、ディスプレイを長時間見続けるライフスタイルの結果」なんて論文を公表したら、「私がとっくに指摘していた!」と思い出してね。

 まあ、ないか。
[PR]
 日本ホーリネス教団による、「人権問題としてのセクシャル・ハラスメント」(Link)というパンフレットがネット上で公開されていることを知って、しばらく前ですが、全文を読んでみました。

 上のリンク先画面の左下には、PDFファイルでデータがダウンロードできる箇所があります。たぶん、問い合わせが多数あって送付作業に支障が出たのでしょうね。
 私はプリントしてから、仕事帰りの電車内で読みました。(ネット上でも、簡単に頁をめくり、読むことができます。)
e0079743_1601763.jpg
広範囲の網羅的内容
 内容は人権という視点から、セクハラ問題だけでなく、個人情報保護、パワーハラスメントへの理解、不祥事が起きやすい状況や注意点など、かなり網羅的に取り上げてあります。実際にハラスメントが起きたときの対応、また被害者、加害者への回復に向けて対処にも触れていて、とても参考になりました。

 私が教えられたのは、刑法第134条に、宗教上の指導者が知りうる個人情報の守秘義務が記されており、これを破れば犯罪行為(刑法で裁かれる)になると、改めて知ったことです。

文章が読みやすく、じつに明解 
 おもに牧師、指導者に向けて書かれたものですが、内容は誰が読んでもいいものだと思われます。私がとくに感心したのは、文章の流れがよどみなく、読みやすく、大変理解しやすいものになっていることです。これは名文と言えるのではないでしょうか。

 私にとってここで言う「名文」とは、芸術的という意味でなく、読者への配慮(読者は誰か)、文章の統一性、句読点の位置、内容の展開、構成が、読者に負担をかけずに、書かれた目的を十分に果たすもの(コミュニケートするもの)になっている、ということとです。

 研究資料的なものではなく、具体例をあげたり、重厚な文章を読んでみたい人のためでもありませんが、「必要にして十分」「簡にして要を得ている」というか、複雑すぎず、詰め込みすぎずで、かえって読者各自が、さまざまに考察を深めることができるのではと思います。

 大切な分野ゆえに、難解、重厚な文章より、明晰な本資料の果たす役割は、大きいと思われます。教会関係者なら誰でも(青年から大人)読んで、話し合うことができる最良の資料の一つだと思います。

 皆様も、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか?
[PR]