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今年の紅葉は、1-2週間遅れだそうです。

この11月は私にとって、いくつかの外泊(カンファランス、リトリート)が集中
する月となりました。

今週は、火曜日から4泊での外出がありますが、そのうちの二泊は八ヶ岳の麓、
清里のペンションで仲間たちといっしょに恒例の黙想リトリート
今回はゲストに、親しくさせていただいている上沼昌雄さんを迎えて過ごします。

清里は、かつての賑わいが去り、シーズンオフはすっかり閑散とした静かな町に
なっています。でも、さすが日本の代表的な高原。
自然も空気もさわやかで、紅葉もほんとに美しい。

ということで、今週のブログ更新はお休みになります。

コメントのほうは遠慮なくどうぞ。
お返事は帰ったらになりますので、どうぞよろしく。

ついでに、チェンバロ製作をしている叔父の工房も訪ねる予定。
4年ぶりの再会。
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招かれて当社について話しました
昨日、金曜日の夜、お茶の水の同じビル内にある学生宣教団体 KGK の主事の方
からの依頼で、社会人OBたちのグループに、「会社(あめんどう)のなりたちや現状について話して欲しい」ということで出かけました。
「プロジェクトJ」(リンクを貼らさせてもらいました)という新企画だそうです。

参加者は、学生から30代前半くらいの男女で、事前に聞いていたより
多くの方々(12、3人くらい)が集われました。

私が頼まれた内容はリンク先にもあるように、本の中身というより、
 1 設立の経緯  2 出版業を維持するための資金繰りの特徴
 3 経営者としての経験

ということでまとめました。

きれいごとでなく、現状をありのままに飾らないで語ることにしましたが、果たして、
そのことで彼らが励まされたかどうかは・・分かりません。
私の信仰のなさ、品格のなさも見透かされたかも。(汗)

最初に、当社のビジネスの特徴として、四っつの 「 S 」 をあげてみました。

  Small   小さなサイズの経営
  Slow    ていねいにゆっくりと良いものを制作
  Simple   過剰を避けた、簡素で美しい本作り
  Spiritual  現代のキリスト者のための霊性を追い求める


これまでの歩みを振り返るよい機会
話が終わってから、いくつか質問をいただき、答える時間もありました。

「これまで続けて来ることができた支えはなにか」
「資金が足りなくなるとき、どうするのか」
「これからのヴィジョンはなにか」
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・

いろんな良い質問をいただき、その場で答えていきましたが、
巡り合わせ(導き?)で「なっちゃった社長」である私。
これまで言葉にしたこともなかった内容もあったりで、
うまく答えられたか分かりません。

机とパソコンばっかりに向かっていることが多い、孤独な作業の毎日です。
こういう機会は初めてだったのですが、これまでの歩みを立ち止まって
考え、まとめるよい機会となりました。

さわやかな若者たちを前にして、私もたくさんの励ましをいただきました。


よけいなこと、話しすぎたかな・・・


厳しい社会状況です。主にあって、がんばれ、若者たち!
山崎主事ブログ・レポート
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教会史から学べること
今ではりっぱな教会音楽として評価の高い賛美歌は、作られた当時は
低俗として嘲笑されたものが多いそうです。たとえば、

○「ジュネーブ賛美歌」(英国女王が低俗と嘲笑)
○「きよしこの夜」(マインツ大聖堂の音楽主事「宗教性がまったくない、
  大衆的な悪ふざけ」)
○ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」(当時の教職者「大衆劇のよう。
  繰り返しが多く、メッセージ性が乏しい」)
○名説教者チャールズ・スポルジョンは、当時作曲され、現在我々が
  重んじている賛美歌を軽蔑。

いやー、驚きました。そうだったんですね。

これらの言葉は、現代の新作賛美歌に向けられる意見とまったく同じだというのだから面白い。

17世紀のバプテスト派は、教会で賛美歌を歌うのは「福音的な礼拝にふさわしくない」
とさえ考えていたそうです。当時のキーチ牧師が、大論争まで巻き起こしながら、
忍耐して20年かかった末、やっと普及したのだとか。(神学を変えるより難しい!)

今ではドラム、シンセサイザー、ビデオ、ドラマを持ち込んではならぬ、
とする一部の教職者がいるそうです。(基本的に採用の可否は各教会の自由です。)

伝統的な讃美歌を捨てて、現代のものに
サドルバック教会では、いちばん教会に来てほしい人たちのことを中心に準備し、
ラジオなどで人々が毎日聞き慣れている音楽スタイルを導入することに決めたそうです。

また、自分の教会の教会員に、ふだん聞いている音楽についてアンケート
(マーケッティング?!)したら、40歳前の人々は、1965年前の音楽には
まったく興味を示さなかったそうです。(日常生活と教会生活の分離はここでも?)

現代音楽とそのスタイルを採用したことで、教会員が何百人も去ったそうですが、
その代わり、新しい音楽スタイルで何千人もの人を引きつけることができたとのこと。

たいへん面白い試みですね。ヨーロッパの古い教会音楽を好む日本人は、
私を含めたしかにいます。しかし、その割合からしたら、
そうでないほうが圧倒的に多いでしょう。
日本の教会は、新来会者に来て欲しいにしても、どんな人を想定しているでしょう。

伝統的な音楽を好ましいと感じる何割かの人? それとも、その他の大勢?
それぞれ、いいところがありますよね。それとも、そいうことは考えなくていいのだろうか?
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 しつこく、第六弾です。編集者はしつこくないと勤まりませんので。(笑)

e0079743_161746.jpg音楽を非常に大切なものと認める
リックさんは最初、音楽を過小評価していたそうです。
しかし今では、「一流の音楽による讃美をするよう精力とお金を
つぎ込む」という考えに変わりました。

それも、教会に来て欲しい人に親しめる音楽で礼拝を構成するそうです。
アメリカ人を支配している娯楽は野球でなく、「音楽」だという認識からきています。(教会が大衆の娯楽を提供するの?)

音楽をいちばん利用しているのはサタンではないかと言います。
現代世俗音楽は、多くの若者や人々の心をとらえています。
そのコンサートには、大伝道集会以上の多くの人々が常に集っています。
(世俗音楽のほうが、かつての歴史的大リバイバル集会を真似したのかも。本家はこちらのほうだ! 笑)

なぜ教会はそれを良いことに用いないのか、今では日常ほとんど耳にしない何百年前のヨーロッパ音楽を用いるのか、と。
(私個人はクラシック音楽が好きですが・・汗)

サドルバック教会での失敗
かつてサドルバック教会では、「バッハからロックまで」カバーしようとしたことが
あったそうですが、満足する人は一人もいなかったとか。
そして、「教会員のすべてを満足させる音楽スタイルをひとつだけ探す努力は時間の無駄」という結論に達します。

リックさんはこう言います。
「どんな音楽を使用しているかで、その教会がどんな人を招きたいか、
また、招くことができないか、現地にいくまでもなく分かる」

「18世紀のヨーロッパで書かれた音楽だけがいいとするのは、文化的エリート意識」

「教会は、特定のスタイルの音楽だけが『神聖』なのではないと認めるべき」

「特定の音楽だけを神聖化するのは偶像礼拝」

ここまで大胆な言い方に、驚きました。世俗音楽と宗教音楽を分けるものは、
歌詞だけだという考え方です。確立した一定の形だけを長年ありがたがるのは、
ある意味、硬直化した「偶像礼拝」と言えないこともないが・・。

礼拝音楽を多数蓄積するのは、歴史、膨大な時間、多彩な才能が必要で
簡単ではないですが・・。
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世の中には驚かされることが多い。
その中には、喜びもたくさんある。

先日、久しぶりに伯父からメールをいただいた。
ネット上に趣味についてのインタビュー記事が「趣味遊遊(リンク有)」というサイトに連載されるので、紹介したいということだった。

伯父は、四年前の2003年の夏に初めてお会いした。というのは、少し遠い親戚に当たり、それまでお会いすることがなかったためだ。父の従兄弟に当たる。

その伯父の趣味が、何と私が若いころから憧れていたチェンバロ製作。(写真:伯父が紹介されているサイトから拝借)

私は大学に入った時、無謀にも、楽器をまったく習ったことがないのに、
創設されたばかりの、当時は珍しかった「バロッック音楽研究会」に入部。
バッハの鍵盤(パイプオルガン、チェンバロ)曲が大好きだったので、
憧れのチェンバロに触れてみたかった。(鍵盤楽器は10-20年習わないとものにならない。)

大学の一年目は、当時、手に入りにくかったチェンバロ(英名:ハープシコード)を、
先輩と製作しようということになった。
結局は、器用な先輩が一人で小型を一台製作して打ち切り。

それから月日は流れ、2003年、初夏。あることから、まだ見ぬ伯父
の趣味について知ることになり興奮。さっそく連絡をとって、
長野にある工房に押し掛けたというしだい。
初めての私達家族を、伯父夫妻は快く歓迎してくださり、楽しい一時を持った。

レオナルド・ダ・ビンチのスケッチが残っている幻の鍵盤楽器(ガイゲンベルク)
を再現して話題になり、外国に招かれて展示もしたそうである。

私はそのとき、小さな出版社を経営していることをお伝えした。
その後、うれしいことに当社の本をお読みいただいたようで、
大変高く評価していただいている。

彼と会った年の秋、私は心の病(軽うつ)を患い、その後二年間の闘病生活を過ごした。
その間、伯父のことは忘れてなかったが、ずっと連絡がとれずにいた。

しかし、今回いただいだメールに、さっそく返事を書いてコンタクトが再開。
この秋、久しぶりに長野の工房に訪ねてみようかと思案中である。
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今日のハイライトは、仕事を終えてから出版ビジネス関係のセミナーに参加したこと。私としてはめずらしい。

e0079743_0191987.jpg出版をめぐる技術的環境は大きく変化しており、追いついて行くのは大変。

とくに弊社のような弱小出版社は冒険ができず、先行投資もなかなか困難。

そこで、「最新」を追い求めるよりは、その「最新」が落ち着いて、環境がかなり整ってきたころ検討するようにしている。

今日のセミナーは、新興のDTPソフト(出版物用)のバージョンアップがこの数年で進み、使いやすくなったことが背景にある。

その解説と経験談を聞いた。なるほどと思えることや、「あれはどうなるのか」とような質問が私にはたくさんあった。

セミナーは二時間半以上あり、質問時間も十分あり、講師が書いたマニュアル本も料金に含まれていたので満足度が高く、参加してよかった。

終わって外に出ると、雨。 やばい! 傘を持っていない。
食事もまだ。

そこで、近くにあった回転寿司に飛び込み、遅い夕飯をすませた。
それから、ビニール傘への思わぬ出費……。
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 毎日とまではいかないまでも、日々の短い日記をこれから書こうかと思う。土日は休み。(ただ、途中で挫折するかもね。)

アメリカ在住の方々との協力
 今日はインターネット電話「スカイプ」(無料)を使って、現在、翻訳を依頼中のシアトル在住のK牧師と打合せを行った。

 日本時間、午前11時から始まり午後3時に終了。アメリカ時間では、午後7時から11時という時間にあたる。ほぼ4時間という長丁場だが、これがあっという間に過ぎてしまうのだ。途中、私の昼食時間を20分ほどとった以外、だいたい1時間ごとに10分くらいの休憩を入れた。

 私のパソコンはマックだが、ヘッドギアを用いずとも、パソコン付属の小型スピーカーとマイクでなんとかすんでしまう。便利になったものだ。

 もう一つは、やはりカルフォルニア在住の日本人の方にお願いして、別の本の企画で、あるセミナーのメッセージをワープロ入力していただいている。
 こちらは音声ファイルを、やはりインターネットで海を越えて送付し、あちらでそれを再生しながら入力してもらうという具合だ。これも現在うまく進行しているのでありがたい。

 インターネット時代の本制作が、少し前までとずいぶん様変わりしていることを実感した一日だった。
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 前の米国副大統領ゴア氏が、先週、環境問題に警鐘をならす世界的な働きでノーベル平和賞を受けたのはご存知でしょう。
 私としては、へえ!? と驚きましたが、おもしろかったのは、それを報じる朝日新聞に、「伝道師」「伝道」というキリスト教用語が使われたことです。

 「洗礼」「三位一体」「福音」とかのキリスト教用語が一般に使われるのはもう珍しくないですが、これまで「伝道師」という用語は、テレビのバラエティ番組などで、おもしろおかしく使われていた程度。あと「テレビ伝道師」・・。
 ここにきて、こうまで肯定的に、しかもノーベル平和賞受賞者に使われ、しかも大きな活字で登場したのは、大変珍しいと思いました。

 英語圏でも「エヴァンジェリスト」という言葉が、このような場合に使われるのしょうか。それを報じる英文を訳して新聞が用いたのかもしれません。
 これでこの用語は、日本で一般用語として市民権を得るかも知れませんね。

 さて、私たちキリスト者にとって大変重大な意味をもった用語「受肉」が、日本で市民権を得るのは、これからどれくらいかかるでしょう。
 まあ、相当困難でしょうね。げんに、パソコンの日本語変換に出てきませんもの。(汗)

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 リックさんが、なぜこうした「改善(カイゼン=トヨタ手法?)」をするかは、教会の背景を持たない人々が、もはや大半を占めるようになってきたからでしょう。また随所に、経営学の大家ピーター・ドラッカー氏の影響を見ることができます。

現代経営論の導入か?
 これは、神学や教理をまげることなく、「変えていいところは変える」と言うことができそうです。これは経営的手法で、いわゆる「教会成長論」の一つとして、あまり好まない人がいるらしいことは聞きます。
 数や統計、計画を重視し、教会を大きくしたいがために目前にいる人間が疎外されるような非人格的な「教会成長論」の弊害は、すでに私たちは学習済み。

 経営学というとこの世の手法と思われがちですが、要は、現実を直視し、「相手をよく知り、己をよく知る」という、ごく当たりまえの感覚とも言えます。「経営学」が悪なのではなく、何のためにそれを利用するのかで問題が出るのではないでしょうか。

e0079743_14185270.jpg新来会者のフォローはどうするのか
 前回の記事で、「新来会者は皆に紹介せず、そっとしていく」というリックさんの考えは分かりました。日本の教会は人数が少ないので、ある程度の紹介は避けられないでしょう。しかし、リックさん! フォローはどうしたらいいのでしょう。 
(写真は原書に掲載。カジュアル!)

三種類のカードの活用
 サドルバック教会では、人数が多いこともあるでしょうが、「新来会者紹介」の時間を持たない代わりに、いくつかのカードを用意しているそうです。

 (1)第一印象カード  (2)歓迎カード  (3)礼拝評価表

 この資料を通じて、出席の確認、霊的状態の診断、祈りの課題収集、信徒の年代、行事への参加希望の有無、人材募集、礼拝の評価、個人情報の更新、説教の材料集め、新しい必要の把握、その他・・・を知るのだそうです。

 いやー、びっくりしました。ここまで来会者や信徒の情報、状態を知ろうとしているとは! もちろん信徒は自発的に提出するのでしょう。牧師へ個人的に伝えたいことも書けるそうです。「面と向かって口で言えない人でも、文章でなら伝えることができる」とリックさんは言います。ほんとですね、これは。

 リックさんは、会員が三千人になるくらいまで、毎回全部に目をとおしていたそうです。現在は、牧師への私信が書かれているものだけ読むそうです。いやー、すごいもんだ。

それぞれのカードの役割
 カードは、新来会者だけが書くのでなく、みなが書くので、新来会者の心理的負担が軽減される、またカードは献金袋に入れて回収するので、献金しない人でも献金袋に入れるのがある(!)ということです。知恵ですね!
 新来会者は、「第一印象カード」を書くそうで、そこから初心者の視点を学ぶことができるそうです。また、来会が一回目、二回目、三回目かどうかを記入する欄があり、牧師より、それに応じた歓迎の手紙を受け取るのだそうな。へ〜、びっくりだ。行き届いてますね。

 「歓迎カード」は、定期的出席者、教会員からの感想を収集するのだそうです。なかには提言、助言をよくしてくれる信徒がいて、耳を傾けるそうです。

 「礼拝評価表」は、教会スタッフの見解、感想用。週報、音楽、説教・・・あらゆる礼拝要素の評価を書けるそうです。毎回の説教についての感想、評価も書けるのは画期的。

 日本の教会でこうした「信徒からのフィードバック」を得ているところは知りません。とくに先生に意見を言うのは失礼になり、はばかれる文化(聖域?)です。「思うところはあるが、どう伝えてよいか分からない。聞き入れられるかも不明。このままだと、黙って別な教会に変わるしかない」と思っている信徒(初心者ではない)を、私は何人も見てきました。(それはそれでしかたがない、という考えもあるでしょう。)
 また教会スタッフといっても、なかなか率直なことは書きにくいでしょう。システムを作ればよいというより、それを支える風土作りがあって、はじめて成功すると思います。

 三種類作るかどうかは別にして、こういうフィードバックの窓口を作ることは、小さな教会でもできそうです。これをするだけでも、教会はますます良くなるのではという予感がします。(そう思うのは私だけ?)
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e0079743_22492594.jpg 続きです。たくさんある内容から、ほんの一部をここでは扱っています。

形式ばった雰囲気は人を不安にさせる
 ウォレン氏は、礼拝が堅苦しいと新来会者は「自分は場違いなことをしてしまわないか」「どう振る舞ったらよいか分からない」と心配し、自意識過剰にさせてしまうと言います。そこで、できるだけリラックスできる雰囲気作りを心がけているそうです。
 そして新来会者向け週報には、努めて理解不能な用語を使わないそうです。例えば、

「招詞」「祝祷」「献金」「頌歌」「後奏」

 ほかに「頌栄」などもありますね。「牧会の祈り」の「牧会」も、教会だけで通じる用語です。国語辞典に載っていない用語がたくさんあります。たぶん神学校で学ぶ「礼拝学」で、必ずこの用語を使用するようにと指導されるのでしょうか? 礼拝らしくなるから? 起立して、「主の祈り」や「使徒信条」を唱えることも、新来会者は不可能。私は恥ずかしながら未だに「頌栄」という用語の意味が分かりません。
「格調高いことば遣いに慣れている人を満足させるより、初心者によく内容を理解してもらいたい」と、サドルバック教会では平易な言葉に置き換えているそうです。

礼拝終了後の報告について
「教会が大きくなると、報告も長くなるのが常である」。ふ〜む、たしかに。
 季節的にいろんな行事が重なると、来会者紹介に続いて次々と細かな連絡事項の報告があり、メッセージを集中して聞いたあとで、さらに集中し続けるのは私はかなり疲れます。ときに10-15分の長さになると、私の頭はもう働きません。終わると、ぐったりしてしまいます。
 新来会者のために、ウォーレン氏は工夫して短く終わるようにしています。知恵者ですね。興味がある方は、ぜひ本書『魅力的な礼拝へのかぎ』をお読みください。

牧師のスタイル
「牧師に仰々しい敬称はつけない」そうです。「ウォーレン博士」とは呼ばないで、ただの「リック」と呼んでもらっているそうです。いいですね。日本語では「リックさん」になるでしょう。

 日本で敬称(「先生」)を省くことは、儒教、タテ社会の影響を残している文化(と私は思う)と言語であるため、難しいでしょうね。日本では、名前が知られ、実績があると認められる年長の牧師に、「さん」と呼びかけたら、「馴れ馴れしい」「失礼だ」という力学(暗黙知)が働きます。さらに儒教色の強い韓国では、「牧師先生様」と、「師」「先生」「様」と三つの敬称が重なると聞いたことあります。本当でしょうか?

「牧師の服装はカジュアル。ここ数年、スーツ姿で講壇にたったことはない」とウォレン氏は言います。「服装は文化的なことで、神学的意味はない」と。
 ウォレン氏がわざわざこう記すからには、アメリカでも牧師はフォーマルが多いのでしょう。日本は、公の場での礼儀が重視されるので、神と参加者に敬意を表す意味で(あるいは専門職としての自意識? 仕事着?)フォーマルなのでしょうね。

 私自身はビートルズ、ヒッピー世代(Tシャツ、ジーンズ)なので、カジュアルのほうが本音に近いという意味で好きです。また新来会者のビジネスパーソンは、月曜から金曜日までフォーマルなので、日曜までフォーマルを着たいと思わないでしょう。
 こちらがラフな服装のとき、ネクタイ背広の人が近づいてきたら私は緊張します。自分はフォーマルでないので相手に失礼かもしれないと思うからかもしれません。
 まあ、神様は服装で人を見ることはないですが。
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