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e0079743_2214560.jpg 世の中ひどいことが多すぎますね。ミャンマーの軍政の横暴、相撲界の暴力、高校生のいじめ、自然災害、温暖化現象・・。いつも考え込み、心は揺れ動いたり、怒ったりする毎日です。このブログでは範囲が広がりすぎるので、こうした題材をあえて扱っていませんが、いつも考えさせられています。

 今回の内容は番外編です。
 今日、日曜礼拝の集いで食後のデザートに、ぶどうの巨峰が出てきました。そうしたら大きな房の中に、見たことも、聞いたこともない、ハート形のぶどうの実を発見!!

 こんなことってあるのですか? 一同、いたく感動いたしました。
 そこでみなさんにも、目の保養ということでアップいたしました。
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 キリストにつながっていると結ばれる実、それはぶどうの木とその実にたとえられます。

 そして聖霊(心のうちにいるキリスト)が結ばせてくれる実は、愛、喜び、平安・・。

 皆様の内に、私たちの内に、さらに愛の実がむすばれますように。
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 7月に、二回ほど、関連記事を載せましたが、名翻訳家として有名な中村妙子先生の翻訳教室が、本日最終回を迎えました。残念ですが、事情でしばらく活動を休止なさるそうです。
 幸いなことに私は、最後の公開講座に参加することができたというわけです。

しめくくりの昼食会
 2002年から始まったこのコースは初め、前後期の授業があったということです。参加はそのとき、数名でした。年を重ね、段々と生徒さんが増え、今回は30数名で教室はいっぱいでした。

e0079743_21531166.jpg 今日は、なごり惜しいということで、授業を30分早めて切り上げ、おなじ明日館(F・ライト設計)のホールで、昼食会となりました。

 わたしはモタモタしていて席が見つからず、どうしたものかと思っていたら、「あちらが空いているので座ったら?」と親切に言ってくださる方がいて、「ああ、そうですか・・」と移動して座ったら、なんと、中村先生の右隣りなので、びっくり。そんなぁー。
 日本人のみなさん、遠慮深いから、私がこんなことに・・。もう手遅れです。

先生のお人柄
 中村先生はとても穏やかで、謙遜で、温かいお人柄です。それを慕ってか、たくさんのおしとやかな女性たちが集っていました。翻訳家を目指してガツガツ勉強しに来ているというより、先生の翻訳本が大好きで、それを読んで人生を豊かにされてきた、というような方々が集まっている感じです。

 先生に感謝と尊敬の念をお持ちの方々ばかりでし、いっしょの場所で、同じ空気を吸い、翻訳の話しを聴けるだけで光栄というような、静かでありながら、熱烈なファンが多いようでした。なかには、長野や群馬からの参加者もいました。
e0079743_21532511.jpg そういうわけで、隣りにいる私が先生との会話を独占したら嫉妬の目にさらされる思い、遠慮しつつ少しだけお話しました。

 これだけ尊敬を集めている翻訳家がいるって、素晴らしいですね。食事中、代表して三人の方が感謝の言葉を述べました。五年間、講座を受け続けた方もいました。

 先生を見ると、ほとんど箸に手をつけていません。そこで私は、
 「どうなさいましたか? ごはんが堅めだからですか?」と尋ねると、
 「いえ、胸がいっぱいで・・」との言葉。
 それを聞いて、私も感動しました。(宮内庁御用達の弁当。私すべて平らげましたが・・。)

二冊の紹介図書
 最後に、最近訳した二つの本を紹介なさっていました。
 キャサリン・パターソン著『私はだれ? 自分さがしのヒント』(晶文社)
 クリスチャン女性作家が書いた青少年のための信仰入門のような内容。晶文社から出たとは。

 エリナー・ポーター著『ぼく、デイヴィッド』(岩波書店)
 音楽が開く素晴らしい世界を題材にした青少年向け小説

 どちらも魅力的な内容ですね。どなたか読んだ方いますか?
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 これまでの本ブログの副題「編集者の日々」を、「スピリチュアルな日々」に修正してみました。
「編集者の日々」は、なんか散文的で、事務的で、夢がなさそうで(笑)。

 いま巷ではスピリチュアル・ブーム。そこで、「スピリチュアル」で検索する人が、本ブログと出会ってくれないかな〜という思いで変えてみたしだい。私が毎日、素晴らしく霊的な生活をおくっているという意味ではありません。ご寛容のほどを。

「キリスト者のスピリチュアルな出版物を編集している日々、そこから見えてくることをブログに書いています」てな意味であります。(ただ、腰がひけて途中で元に戻るかも・・)
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 昨日、連休の一日、東京・四谷の修道院で開催された「一日リトリート」(主催:クリスチャンライフ成長研究会 指導:太田和功一主事)に参加しました。私も主催側の裏方の一人。e0079743_2231417.jpg

 開始は、午前10時、昼はテーブルを囲んでお弁当を食べながらの交わり、終了は午後は3時でした。

 その間、聖書の言葉の黙想と、参加者同士の分かち合い、自分の歩んできた道を振り返る時を持ちました。今回は約50名の参加者でした。

 このリトリートは以前の記事でも書きましたが、普段の生活から離れ、心を主の前に静め、落ちついた中で聖書の箇所を味わったり、ゆっくりと自分の過去を振り返って、そこに見えてくる意味や気づいたりすることが目的です。

他の人の静まりが、自分の静まりを育む
 これは、一人でできるのではと思う方もいるでしょうが、生活に追われている中ではなかなか難しい。それができるのは、

 (1)その場の中心となって導いてくれる指導者がいる
 (2)他の人と一緒に行うことで、他の人の心の落ち着きが、自分を助けてくれる
 (3)自分の気づきを分かち合ったとき、質問もせず、ただ聴いてくれる同伴者がいる
 
からこそ、成立するのではと思います。

e0079743_22311724.jpg詩篇の黙想

 午前中は、詩篇46編をじっくり各自が読み、黙想の時間を持ちました。

 静まって(やめよ、休止せよ、力を捨てよ)、わたしこそ神であることを知れ(46:10)
を、沈黙の中で繰り返し味わいました。

 私にとってはここ何ヶ月も、神の存在や臨在を、生き生きと感じるというところから遠くにいます。ナウエンも言っていますが、プレゼンス(臨在)とアブセンス(不在)は隣り合わせ。感情的、感覚的な実感が伴わない危機が続いています。
 この聖句を黙想するなかで、「知れ」ということと「信頼(=信仰)」ということに、つながりがあることを想いました。

 感覚や実感が伴わなくても、聖書の言葉は真実であり、神も真実であること。感情や五感は神に近づく大切な手段ではあるが、それに頼り切りでは危機を迎えること。感情や実感が伴わなくとも、神は不変で、普遍であることに信頼することを、静まりの中でじっくりと確認しました。

 配られた資料の中で、心にとまった言葉がありました。

   It is the stop that keeps you going.

e0079743_22313090.jpg イギリスの道路際の広告にあった言葉だそうです。
「一休みすることが、長旅を続けるこつ」というところでしょうか。

 別なところである言葉を聞きました。最高峰の山に登った有名な登山家に、インタビュアーが言いました。
「そんな高さにまで、どうやったら登れるのですか?」
 登山家曰く、
「ええ、途中、よく休むからです。疲れ切ってしまう前に、休むのです」

 休むこと、ときに中止して静まること、またこれまでの歩みを振り返ることなしでは、人生は平板になり、虚しくなり、神の導きや温かな眼差しも受けとめることができなくなる・・・そんなことを教えられた一日でした。


 今後の予定は、
  11月3日(土) 埼玉県、浦和福音自由教会(JR北浦和駅徒歩5分)
  2月11日(祝) 東京都、四谷 ニコラバレ(JR四谷駅徒歩1分)
   いずれも、午前10時〜午後3時  参加費が必要です。

   興味のある方は、私までお問い合わせください。
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 では、どうしたらよいか?

e0079743_18173336.jpg答は「簡単明瞭」だそうです
 現状を打開する答は、「友人を連れて来れるような魅力的で、意味のある礼拝を、意識的に創造すること」

 リック氏の教会(サドルバック教会)では、非信者がいちばん来やすい時間帯を「求道者(非信者)向け礼拝」に割り当てて、最初から工夫しているそうです。
 信徒向けには土曜夜の礼拝、日曜日には「求道者向け」以外に二回の礼拝時間を設けています。(水曜夜の祈祷会、早天祈祷会については書いてません。無いの?)

 彼はこの章で、あくまで「求道者向けの礼拝」の実際的、具体的な提案をしています。日本ではとても適用できない話がありますし、本質というより枝葉と思えることが中心ですが、礼拝を成立させる舞台作りとして、新来会者にかなりインパクトを与えそうに思えます。

新来会者への細かな配慮
 照明の明るさ、室温、音響、植物の設置、駐車場、道案内、トイレ、礼拝と並行した子どもクラス、音楽の内容、週報や礼拝での用語、イス、礼拝を進めるテンポ、敬称、ユーモア、礼拝の雰囲気・・と、トピックは切りがありません。いやー、じつに細かい内容。(こうすべきだというより、「配慮しよう」ということだと思います。)

 新来会者は内容もさることながら、こうしたことを肌で感知し、判断していると言うのです。
「来会者というものは、教会に来て10分以内にひとつの見解を持つようになる。牧師の話が始まるずっと前から、もう一度この教会に来たものか案じている。第一印象をくつがえす第二のチャンスはない」(P.12 抜粋)。
(ふ〜む。私たちは初めて商店やレストランに行ったとき、経験上、そうしていないだろうか? 教会とレストランはまったく違うが、教会になじんでない新来会者の習性としてはどうか。)

 礼拝の長さは、サドルバック教会では、何もかも含めて70分だそうです。日本で私が聞いた中では、「説教だけで1時間。説教が中心」という、神学校の授業並みの神学論を展開する牧師もいれば、「私の説教は20分。説教は礼拝の中の一要素」と考える牧師もいます。日本では平均1時間半(90分)+ アナウンス(案内・連絡事項)というところでしょうか。

説教の長さとイス
 私はかつて、自分が行っていた教会の牧師に、畏れ多くて誰も言わないことを提案してみたことがあります。
「毎回、素晴らしい説教で恵まれていますが、できれば説教がもう少し短くならないでしょうか。せめて30分。アメリカの教会は、だいたいその長さですが」と。お返事は、「日本語では難しい」でした。確かに英語では、同じ意味をずっと短いセンテンスで表現できます。

 そう提案した本当の理由は、「集中してメッセージを聞くことのできる注意力と肉体の限度」です。それは、礼拝が始まってからずっと座っているパイプイスに耐えられる時間。腹筋、背筋の衰えもあるせいか、私の腰が悲鳴を上げるのです。

 理解できることが少ない新来会者にとっては、どうしても感覚的なことに敏感になるのではないでしょうか。礼拝時間の長さ、祈りの長さ、音楽、なじみのない宗教用語、礼拝用語に、どう感じるでしょうか? とくに聖餐式に遭遇したときは?

 この本でリック氏は、イスのことをユーモアをもって指摘していました。(同じ考えの人がいたとは、うれしい!)

リック氏曰く、
「座席の快適さと配列もまた礼拝のムードに大きく影響する。不快なイスほど悪魔を喜ばせるものはない」(P.24)
「今日の社会で、人々がベンチに腰かけさせられるのは、教会と野球場の外野席くらいである」(同)   ほかに公園、大学の教室などがありますが・・。

 礼拝の時間は、ベンチに座り続けるのに適した時間というのもあるのではないでしょうか。身体が感じる不快さは後々まで潜在意識に残ります。たいていベンチには座布団があるのでかなり楽ですが。

 座席については、まあ周辺的な枝葉の要素の一つ(でも大切)。本書には、まだまだ興味深いトピックがあります。(続く)
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 6年も前に出された本の話題ですみません。

e0079743_15393833.jpg 有名なメガ・チャーチのリック・ウォレン牧師(ウィキペディア)の著作は、このブログで何回か扱ってきました。(ウィキペディアは英文を和訳したような文。誤字もあるし・・。同牧師への批判的意見も掲載してある。)

 さて、この夏のことですが、翻訳されなかった部分を後で追加して出版したものがあると聞き、興味を抱き、さっそく手に入れました。現在、版元では品切れですが、ネットショップで手に入りました。(発行元いのちのことば社とアマゾンでは品切れ。ヤフーや他のネットストアで入手可能。)

追加して出版された本
『魅力的な礼拝へのかぎ』(2001年6月発行)という80頁くらいの薄い本。これは本来、もっと先に出版され、日本の牧師たちの間で知られた『健康な教会のかぎ』の一部です。『健康・・』の訳者あとがきによると、あまりに具体的過ぎるので割愛したのだそうです。

 果たしてそうなのかと、興味をもって読みました。訳は正確で読みやすいです。内容は訳者の指摘のごとく、じつに細かな、具体的、実践的な提言が列挙されています。大変めずらしい、まれな本。ここまで詳細に書くとは! 日本と事情が違うので割愛したという意味がよく分かります。

 ただ、その内容は、すこぶる面白い。内容が多彩なのも魅力ですが、ウォレン氏のユーモアがいたるところで炸裂して、ほんと、何度か本と閉じて大笑いしてしまいました。ユーモアが大事と主張する彼のセンスが光ります。

『健康・・』(米国のあらゆる神学校のテキストになっているとか)の本の中の第14、15、16章に当たる三章分なのですが、「求道者向け礼拝」「音楽」「非信者のための説教」をテーマにしています。

日本のサイトではほとんど話題になっていない
 この本『魅力的な・・』が、サイトやブログでどのくらい話題になってるか検索してみましたが、ほとんどないので、びっくりしました。刺激的だし、面白い内容だと思うのに・・。

 1つだけ、アメリカのある日本人牧師が意見を発表していました。邦訳には、ほかにも訳されていない部分があるので、原文で読むことを薦めています。(原文は適宜改訂されるため、どの底本かで違いが出てくるのですが。)カルフォルニアの星教会の牧師エッセー

大胆な指摘
 まず、「非信者(新来会者)向けの礼拝の時をもとう」と提案しているのですが、それが徹底的に来会者志向の内容(来会者中心に考えている)なのです。これはピーター・ドラッカーの影響を受けていると考えられます。徹底的な「顧客志向」、「顧客の創造」という視点から、新来会者向けの礼拝の企画について提案しています。

 こういう大胆な提言は、初めて読みました。賛同するかは別にして、すごい知恵者ですね。(『健康な・・・』には、一部、賛同できない部分が私にはありますが、それでも啓発されます。)もっと、早くに読めばよかった。
 まず、本書の第1章「求道者向けの礼拝を企画する」には、ほとんどの教会員がなぜ未信者(非信者)を礼拝に連れて来ないのかの理由を述べています。それは、「教会員が人を誘うことに気乗りがしないから」だ、と。その理由は三つあるそうです。

 ○理由1 礼拝説教の対象が前もって分からない
 ○理由2 礼拝そのものが非信者を考慮して作られていない
 ○理由3 教会員そのものが、礼拝の質に満足していない

 う〜む。こんなホントのことを書いてしまっていいのでしょうか(汗)。そうでない教会も多いと思いますが。

 ですから、プログラムを工夫し、いくら牧師が友人や家族を連れて来るように勧めても、「ほとんどの人は決して連れて来ようとしない」というのです。(現実が証明している?)

 正直な本音を会員に尋ねたら、たぶんこう言うだろうとウォレン氏は言います。「たしかに教会を愛していて、自分は恵まれています。しかし、未信の友人を誘おうとは思いません。私には理解できますが、友人はほとんど理解できないでしょうから」(P.6-7 短く抜粋)

 さらに、ウォレン氏は、こうした本音を内に抱えた信徒は同時に、「友人を教会に誘えないことに罪責感を感じている」とまで書いています。(なんか、深いところで納得させられるなぁ。)

 新来会者を迎えることは、来会者歓迎(大伝道集会?とか)という大看板を掲げたり、地域を形式的に訪問したり(日本だとビラ配り?)、伝道月間を設けたり、信徒を激励したり、広告をうまく打ったりすることではないと断言します。 ふ〜む・・。では、どうしたらいいのでしょう?
(このブログ・シリーズ、しばらく続く。)
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 御茶の水の当社の事務所があるビル2階、「CLCキリスト教書店」が今週、新装開店しました。

 おめでとうございます!!

 これまで3階にあった洋書部と合体して、空間がぐっと拡がりました。「この建物の2階フロアーが全部書店にならないかなー」と秘かに期待していたのですが、それはまだのようです(笑)。(許可を得て写真も掲載)

 今、テレビで話題になるように、一般では大型書店の出店ラッシュ。インターネット書店に対抗してだと思いますが、実際の書店では現物を手に取ったり、意外な本との出会いもあったりするので、楽しいですね。
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 ドアを入って正面から左にかけて、グッズ類、カード、CD、ビデオ・DVD類のスペースが増え、半分ぐらいを占めています。店内もぐっと明るくなっています。

 それから、入ってすぐのテーブルには現在、話題の書籍とその原書(洋書)が一緒に展示してあって面白い。リック・ウォレン氏関連、いのちのことば社の新刊(はちこさん訳『どこ愛』も)、また当社のナウエン・コーナーもあってうれしく思いました。ナウエンの英語は分かりやすいので、手にとってみてはいがでしょうか。(銀座の教文館もあったはず)

 洋書は、背の高い本だなに集中的に並べてあって壮観です。
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 私は、先月出たばかりの有名なゲーリー・チャップマン著『愛を伝える5つの方法』(The Five Love Languages)を購入。
 開店記念プレゼントの聖句スタンド『詩篇の恵み』をいただきました。お得な気分〜。数に限りがあるようですので、記念品に興味のある方は、今のうちですよ。
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 しばらく前のネット上のニュースに、曲がり角の米国の福音派、勃興するハウスチャーチという記事が載りました。
 メディアはセンセーショナルに扱うので、記事のトーンは気をつけなくてはなりません。

 ・気をひくために記事を演出しがち
 ・日本人記者はキリスト教界に無知(特に福音派に対して)で、正確性が低い
 ・初めから政治的な先入観で決めつけて、視野が狭い
 ・二次情報で書くことが多く、さらにそれを短くまとめるため内容に混乱がある。

 というのが私個人の印象です。間違っていたら教えてください。
 しかし、日本語で明確に報告してくれるのはありがたいです。

e0079743_229129.jpgメガ・チャーチに背を向ける人々
 この記事の報告はまず、メガチャーチ作りに背を向けて、ハウスチャーチに参加する信徒が増えているということです。主催者の一人は、

「メガチャーチでは結局、誰とも出会わず終わってしまうことも多い。僕たちはもっと実質的なつながりを求めている」
とのこと。
 元メガチャーチの指導者は、「次々にメガチャーチが生まれ、福音派が成長しているように見えた裏で、小規模な教会が消えていった。大組織の中では人々は疎外される。少なからぬ信者が不満を持っていた」と。

 このへんの観測や理解は、どうなんでしょう。正確なんでしょうか。(そりゃー、部分的には当たっていて、ハウスチャーチも増えているでしょうが、この記事の流れでは、米国全体でメガチャーチが減り、これからはハウスチャーチが主流になるかのような記述は変だと思います。)

 06年の調査によると、これまで家庭での礼拝を経験したことがある人の総数は7000万人。(ええ〜? アメリカの人口が約二億人。7000万だなんて、どう考えても多すぎる。一桁間違っているのでは? ここでの「家庭での礼拝」の定義も不明・・)
「2025年までに、米国で教会に通う人口は今の半分に落ち込むだろう」という予測があるとか。まあ、これも実際は分かりませんよね。

メガチャーチの牧師の発言
 そういえば三、四年前、メガチャーチの代表的な牧師、リック・ウォーレン氏と韓国のチョー・ヨンギ牧師の対談が、ウオーレン牧師関係の英語のサイトに載っていたのを読みました。そこでは、

「これからネット社会が発達するなかで、巨大教会にわざわざ来たいとは思わないでしょう。教会に属しつつ、近くの小グループに加わって、互いに交わりをすることを奨励したい」と話していました。メガ・チャーチの指導者がこう発言していたので、驚いた覚えたあります。(あくまで私の記憶です。リンク先が見つかればいいのですが。)

 そういえば、昨年、福音派の雑誌 Christianty Todayにも、既存の教会に行かなくなったクリスチャンの特集記事がありました。記事は読んでいませんが、ほかに受皿があるのでしょうか。インターネット礼拝?・・まさか。

政治的立場の変化
 この新世代は、政治的にも、共和党よりのいわゆる福音派と異なるスタンスをとり、民主党を支持する人も出てきています。イラク戦争の失策も関係あるかもしれませんが、「中絶や同性婚という問題で対立をあおるより、地球温暖化やエイズ、人権などの問題に力を入れたい。人々の内面の変化にかかわりたい」といいます。(もっともだなぁ〜)

 福音派=共和党支持=イラク戦争賛成=キリスト教原理主義=ブッシュ大統領

 という、日本のメディアのステレオタイプ、「バカの壁」(思いこみの壁)で片づかない動きが出てきたというわけです。
 これは今になって出てきたのではなく、最初から、ここでいうスタンスをとる福音派が、たくさんいたはずなのです。

 日本のキリスト教会は、ほとんどが小さいので巨大な教会で問題になることは、あまりないと思われます。ただ、さまざまな教会があるので一概には言えないにしても、小さい良さを生かしながら、さらなる工夫が必要であることは、皆が分かっているのではないでしょうか。
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 今月で、当ブログが二周年を迎え、三年目に突入いたしました!!

 これまでお付き合いくださった読者の皆さま、ここでの出逢いを備えてくださった主イエスに、感謝いたします。

ブログという万人向けの手段
 これまで、個人が多数の人に意見を発信する手段は、ごく一部の人に限られていました。出版、新聞などのメディアを通さなければなりませんし、かなりの資本と経験、技術がないとできなかったわけです。(HPはブログ以前にありましたが)
 そこにブログの登場です。もちろん、どれだけの人が読んでくれるか、そして発せられる情報の確かさにはファジーな部分がありますが、一部の人(権威になり得る)に握られていた伝達手段(高い見地からの制御、情報操作も当然あった)を「ブログ」が解き放ち、素人、すなわちリスクを含めて、万人が用いることのできる場が生まれました。双方向の意見交換もできます。

ブログで知り合った人と現実に会う
 今年の夏は、本ブログ上で出逢った人と、現実にお会いするという、とても貴重な時が持てました。それも、わが家族も一緒にです。ネットでしか知り得ないご家族、それも二つのご家族と一緒に夕食を共にし、楽しい交わりの時をもつことができました。これを、「リアルな」出逢いと言うらしいです(笑)。
 何度も意見交換しているブログ仲間でしたし、ある程度分かっている方々なので、安心度も高いですね。キリスト者同士だったことも幸いでした。ネット社会が生んだ地域教会を超えた交わりでした。

e0079743_22213566.jpg他のメディアにも登場
 二年間、発信し続けることで生まれたことは他にもあります。今年の三月に「大塚国際美術館」を訪問した体験記シリーズが、それを主催したバイブル・アンド・アート・ミニストリーのM田氏と出会ったことにより、その機関誌に連載していただくことになりました。(写真:大塚国際美術館にて)

 また、最近では、「クリスチャン新聞」のオピニオン欄(論説欄)に、論説委員のF掛氏による記事で、愛読している三つのブログ(実際はもっとあるでしょうが)の中の一つとして、短く言及していただきました。「ブログという道具の力」
 恐縮至極なことであります。ますます、いい加減なことは書けなくなりました(笑)。(以上は自慢ではなく、こうしたことが起きたという報告です)

あなたもいかが
 ブログを書いていると、「とても私にはできない」という声も周りから聞こえます。継続してみてわかることは、筆無精な私ができるのですから、「できないことはない」ということです。人がしているようにではなく、自分の生活の延長上に、自分に適した字数で、自分が書きたいことを書けばいいのです。それでも書けないという人は、まだタイミングが来ていないのだと思います。

 さて、ここで言いたいことは、「あなたもブログを始めてはいか?」ということです。肩肘はらず、匿名でいいのです。常識的なルールを守りながら、日々の記録として軽率にも始めてみることです。(ネット依存症にならないよう祈ります。笑)

 これからもよろしくお願いいたします。
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