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e0079743_15563698.jpg『嘆きは踊りに変わる』
─ 苦難のなかの希望 ─
ヘンリ・ナウエン著/ティモシー・ジョーンズ編/小渕春夫訳
四六判並製 価格1785円 (本体1700円+税)192頁
ISBN978 - 4 - 900677 - 15 - 9

「あなたはわたしの嘆きを踊りに変えてくださいました。」(詩編30:11)
苦難にあるときこそ、神に働いていただこう。どんなに動作がぎこちなくとも、喜びのダンスに加わろう。痛みと苦しみの闇に囲まれ、漆黒の夜に閉じこめられたとしても、
そこには、神との喜びのダンスへと導かれる道がある。


 よいクリスマスをお過ごしのことと思います。
 さて、一年近くかかって、ようやく新刊書を発行することができました。しかも、年末になってしまいました。遅くとも、12月初めには出したかったのですが・・。1冊の本に、こんなに時間をかけて出版する会社なんて、ほかにないでしょうね。経営面から見れば社長失格です。

e0079743_9443545.jpg米国の福音派の出版社から出たナウエン本
 本書は、Turn My Mourning into Dancingの全訳で、ナウエンの未出版の手記から拾い集めて編纂されたものです。原書の出版元は、W Publishingで、Thomas Nelsonに吸収された出版部門です。TNは、米国南部の保守的福音派の老舗キリスト教出版社で、マックス・ルケードなどのベストセラーを出しています。その出版社から、カトリック司祭の著作が出版されたのですから、それだけでも注目です。
 クリスマス25日の発売で、もう主要なキリスト教書店には並んでいますので、手にとってご覧くださったらうれしいです。

思いがけない展開
 訳者として、最初は別な人に依頼していました。しかし、だいぶたってから体調を崩されたため、急遽、やむを得ず私が担当することに。
「訳者あとがき」に書きましたが、おもに20年間に渡っての資料から編纂されたもので、翻訳、推敲では難儀しました。

 しかし気は許せません。書店に並んでようやくというこの時点で、一部に製本上の問題点が発覚。この1〜2日に対策に追われ、慌てました。やれやれ。

本書の魅力
 本書の中心テーマは、希望が失われたかに思える苦難、悲嘆(グリーフ)の中にあるとき、どのようにそれを受け止め、神と共に歩んだらよいかが書かれています。とくに「神のほうから私たちに近づき、手を差し伸べ、やさしく喜びのダンスに誘ってくださる」というナウエンの霊想は、「泣きつつ、笑いつつ」というような、不思議な感覚のスピリチュアルな世界に導いてくれます。
 扱っているテーマは重いですが、例によって読みやすく、心に深く届く内容になっていて、誰でも楽しんでいただけるのではないかと思います。

 本論はもちろんですが、要所に配置された心に触れるエピソードが魅力です。なかには、これはナウエン本人のことではないかと思われるのもあり、想像してみるのも楽しいものです。

日々の生活で味わう悲しみは、キリストの、
より大きな悲しみとしっかりとつながっているがゆえに、
より大きな希望へとつながっているのです。(本文より)

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e0079743_184755.jpg(いくつかの資料を参照して書きました。長くてすみません。ゆっくり何回かに分けて読んでくださいね。一回で書こうなんて、無理を承知の挑戦です。)

グスタフ・マーラー(1860-1911 享年51歳)の生涯
 20代前半で交響曲を書き始める。オーケストラをともなう交響曲的な作品を約11曲作曲。いずれも現代人の魂と存在に感動をもたらす傑作。どれも長い演奏時間と大オーケストラを要し、後期ロマン派が行き着いた爛熟した音楽(あと五年で没後百年)。
 彼は貧しいユダヤ人の家庭に生まれたが、ヨーロッパの上流社会に受け入れられるためにか、カトリックに改宗する。長くは続かなかったが、ヨーロッパ音楽芸術の頂点、ウィーン・フィルの指揮者になった。

 彼の父親は、子どもをむち打ち、妻を虐待し、暴力で家族を支配した犯罪者まがいの人。15(*12)人の兄弟姉妹がいたが、8(*9)人が早死(病死、自殺など)。父と母も分裂的な気質で、本人もそれを引き継いでいると言われている。貧しかった彼は、健康を害しながら、仕事のあいまに作曲した。自分の子も幼くして亡したり、自身も、持病、死の予感と耐えず向き合ったりして暮らした。(*文献によって異なる)

 作曲家、指揮者として抜きんでた才能があり、その厳格で、圧制的な態度は、オケの楽員とも、他の人間関係でも、いつも問題を起こしていた。「彼はあまりに自己中心的、あまりに自己の芸術におぼれていた。自分だけの内的生活に浸っていたので、とうてい他人について考える余裕などなかった」(マーラーの弟子、ブルーノ・ワルターの言葉)

マーラーの音楽の特徴
 不幸な生い立ち、そこで得た心の葛藤、闇、憧憬を繰り返し音楽で描き続けた。彼が発病しなかったのは、創作活動をしていたおかげだと言う人もいる。彼の音楽は、ユダヤ的な音色とメロディーが色濃い。その音楽は、自分の精神病理と人格を反映して、苦悩、狂乱、死、恐怖、怒り、平安、喜び、悲しみ、鬱、諧謔、憧れ、この世のものとは思えない壮絶な美しさ、陶酔・・・あらゆる要素が放り込まれている。その統一性のない音楽、混乱、桁外れな世界が魅力である。そしてつねに、長い、長い、「埋葬、葬送の音楽」が付随する。

「悶絶するような自己矛盾こそが、マーラーの音楽を現代人にとってなおきわめてアクチュアルな(あれほど感動的な)存在にしているものであるに違いない」(岡田暁生著『西洋音楽史』195頁)

神無き時代の宗教音楽:第三交響曲を題材にして
 第三交響曲は全部で6楽章あり、すべてを演奏すると100分(1時間40分!)もかかる長大な曲。(あんまり長いので、私は第1楽章か第6楽章(この各楽章とも30分かかる)だけを聞きます。)

 他の楽章は、歌曲がついていて、ニーチェの『ツラトウストラはかく語りき』(不信仰の世界?)から引用した歌詞と、それと対極をなす救いの世界、天国をかいま見るかのような朗らかな歌曲付きの音楽。最後に来る第6楽章が、ものすごく美しい! うっとりと我を忘れていまうかのような音楽だ。

 この6楽章の演奏のさい、マーラーが与えている指示はこうだ。
「ゆったりと、安らぎにみちて、感動をもって」「非常になめらかに」「できるだけ表情豊かに歌う」「荒削りにならないで、満ち足りた高貴な音で」
 彼の言葉「アダージョにおいて、すべてのものが安息と存在のなかに解消する」

オケが奏でるパイプオルガンの音、そして沈黙
 この最終楽章のエンディングは、100分もかかる曲の最後を飾るにふさわしい壮大な音の洪水の世界。最後の和音が鳴り響く前の二〜三分くらいが圧巻だ。弦楽器はきしみ、金管が力の限り咆吼し、ティンパニーの渾身の連打、炸裂(しかし、荒々しくなく、高貴さを保って)。そして、最後の最後に鳴り響く終止の長い和音は、まるでパイプオルガンを最強音で鳴らしているよう。

 岡田暁生氏の言葉を借りる。
「とりわけ感動的な瞬間といえば、延々30分近い時間(第六楽章)をかけてようやくたどり着くこの楽章のクライマック近くで現れる、あのトランペット・ソロだろう。〈略〉それはまるで名もなき人の心に浮かんだ名もなき旋律が天上まで届き、そのこだまが天使の吹くトランペットの音となって、再び地上に降り注いでくるかのようだ。この啓示の瞬間を境にして、あたかも天上と地上の間に反響しあうように、この旋律は音量を増していき、オルガンのように響く最後の和音へと至るのである。『これほど心を揺さぶる音楽は前代未聞だ』と書いても、多くの人が同意してくれるはずである」(193-194頁)

「音響が増せば増すほど、ますます聞き手は各々の内的世界へと深く沈潜していく。これは〈略〉交響曲であるにもかかわわず、それは祈りの音楽なのだ。何よりの証拠は、〈略〉ライブで演奏される時、最後の響きが消えても、例外なしに誰一人としてしばらく拍手をしようとしない事実である。それはまるでミサの後のように、一人一人がさまざまな思いを胸に静かに去っていくことを、暗黙のうちに求めている音楽だといえるだろう。
 音楽がどんどん世俗化していったバロック以後の音楽史にあって、マーラーは再び、神の顕現を音楽の中に見いだそうとした作曲家だった」(194頁)

神の降り立つ瞬間「ヘシキア」?
 音の固まりの瀧に打たれるかのような最後の和音が鳴り響くのを止め、ホールの残響さえ中空に消え去った瞬間、そこに訪れる沈黙。日常では決して体験することのない大音響ののちの、水を打ったかのような静けさ。演奏者も指揮者も、汗びっしょりであるのもかまわず、静止したまま、圧倒的な余韻に浸る感動の境地。

 大塚野百合氏の最新刊、『賛美歌・唱歌とゴスペル』を最近読んでいた。その内の滝廉太郎(洗礼を受けた頃、作曲した)の章を読んで涙がにじむほど感動した。それは、ヨーロッパの修道院で「荒城の月」のメロディーを聖餐式(ミサ)に採用している様子を描いた箇所だ。その曲が終わったあと、「形容しがたい静けさ」「沈黙へ誘う」瞬間が訪れるのだという。それを東方正教会の霊性では、「ヘシキア」と名づけるそうだ。(大作さんに、辞書で調べて欲しいです)

 すなわち、この第三交響曲を聴いたのちに訪れる瞬間とは、神を信じない人が聖なるものの顕現を体験する「ヘシキア」「形容しがたい静けさ」と言うことができるだろうか。
 しかしそれは、万人の心に神のイメージ、性質を与えた創造主の存在を証明することにならないだろうか。しかし、そのままでよいとし、あえて神の元に来ようとしないのが現代人の現実・・。

関西のおばちゃん
 しばらく前、この第三交響曲を論じるネット上の掲示板を読む機会があった。そこでは大阪でのコンサートに触れていた。そのとき、ある出来事が起こったそうだ。この壮大にして堂々とした曲が終わったとたん、沈黙ならぬ、おばちゃんの叫びが・・。

「すっご〜い!」

 アッチャ〜。た、たしかに「すっご〜い!」なんですけどね(冷汗・・)。
 ・・・・・
 ・・・・さすが関西のおばちゃん。他を圧倒する存在です。

 読者の方も、実際にコンサートホールにでかけて、この大音響の世界に浸ってみてはいかがでしょうか(大音響だからいいというのではありませんが)。
 家で聞くなら、大きめのステレオと音で・・。もし無理なら、ヘッドフォンを両手で押さえつつ聞くのはいかが?

 CD推薦版(定番)---最近は中古が買いやすくなっています。
 ◎レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィル
  (ユダヤ人指揮者による渾身の演奏)
 ◎クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィル
  (ウィーン・フィルの弦が美しい。録音はちと古いが文句無しの名演)
 ◎リッカルド・シャイー指揮 アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団
  (私が聞いている 輸入盤CD。安かった。録音が新しく、大迫力)
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e0079743_22483724.jpgのだめ現象
 テレビ番組『のだめカンタービレ』(月曜夜9時)が人気のようです。私も二回ほど見ました。原作はコミックです。じつは昨年、音大を目指している姪から借りて数巻読んでいました。そのときは、まさかテレビ番組になるとは思ってもいませんでした。読者は限られるのではないかと思いましたから。

 クラシック音楽という、一部の愛好家向けで、堅苦しく、敬遠されそうな分野と思われる世界ですが、天才の音大生を主人公に、その周辺をめぐるサブカルチャーを、ドラマとして面白おかしく描いている点がユニークです。マンガだから、筋の展開も演技もおおげさなのですが、めずらしさも手伝って興味をひかれます。何だか「のだめ現象」も起きているようで、関連音楽クラシックCDが、かなりの売れゆきだとか・・。

 知っている人はいまさらですが、主人公は、「野田めぐみ」と言って、それを省略し「のだめ」と称しています。ただ、どうも彼女の生活行動は変わっています。どうやら天才にありがちな特異な性格の持ち主のようです。彼女のボーイフレンドも心的外傷を受けていたり、登場する世界的指揮者は、奇人、変人の天才として描かれています。のだめ本人は、幼児と大人が同居しているような性格ですし、注意力散漫だったり、あるいは極度の集中力を発揮したりします。退行現象もあるようですが、昨日の番組では、幼いころの回想場面で、ピアノ教師から虐待を受けた様子がありました。

 著作家フィリップ・ヤンシーは、神の実在を、「自然と音楽を通して知った」と言っています。ですから彼の著作の最後に、必ず音楽をめぐるエピソードが出てくるのですね。(気づいた方はいますか?)

 音楽は、人間の無意識の希求に訴えるもの、霊的感覚(スピリチュアルな)に応えるもの、超越的な存在の啓示を示すものがあるのでしょうか。

 私の場合は、高校生時代からなぜかバッハの音楽に惹かれ、いつも身近に置き(無しには生活できず)、やがて聖書の世界にまで、手を引いて案内してもらったように思います。

e0079743_2255876.jpgクラシック音楽史
 最近読んだ本で、岡田暁生著『西洋音楽史』(中公新書)が、たいへん自分にとって役立ちました。これまでいくつか音楽史の本を手に取りましたが、専門家向けか、あまりに詳しすぎて、ついて行けませんでした。しかし、この本は、大学生のための講義が元になっているようで、適度な読みやすさです。ルネサンス、バロックから始まって、文化背景、政治、宗教、思想の流れなども加えながら、音楽をその中に位置づけて解説しています。以下は私なりの概要です。

 グレゴリオ聖歌に始まる教会音楽や世俗音楽、そして時代が下っていくにつれて「クラシック音楽」の最盛期を迎えます。さらに時代が経過し、市民社会や中産階級が力をつけ、音楽は大衆化の一途をたどります。さらに、音楽の教会離れ、貴族離れ、パトロン離れが進み、自立化、世俗化が加速するようになります。その上、二つの世界大戦という出来事が、父権的な秩序や権威の崩壊を押し進めます。既成宗教の失墜、そのせいでか、近代、現代の人々の心を占めるようになった虚無感、神の不在、不信、精神病理が大きな問題をはらんできます。

 そして音楽は、父性的な神のいない世界(混乱、カオス)へと変遷し、規則や秩序、形式を失っていきます。調性の崩壊、不協和音、騒音、偶然性を取り入れていきます。
 ただ、皮肉なことに、人々はそうした現代音楽に背をむけるようになり、前衛的な音楽のコンサートに、人々は寄り付かなくなって空席が目立つ・・。今のおおかたのファンは、巨大な音楽産業に支えながらも、ルネサンスから後期ロマン派の音楽、いわゆる「クラシック音楽」の名演奏を求めて、コンサートに集うようになっている・・。

 今やコンサートホールは、都市の一等地に場所を占め、現代の建築技術の粋を集めた建物を器として、ロビーは豪華なシャンデリアを輝かせ、豊かな響きと美の世界に陶酔する大空間を提供するカテドラル(大聖堂)となりました。人々は、既存の教会堂での礼拝に参加する代わりに、神と司祭(牧師──いや、指揮者が牧師・司祭役かな?)を必要としない、教団・教派、教義・教理などを不要とした聖なる瞬間を待ちわびる民となりました。そこで、沈黙しつつ、ひたすら心を傾け、聞き入るのは説教(言葉)ではなく、感覚的な陶酔、美の世界、全身を包む圧倒的な感動体験をもたらす音響の世界です。

 その典型として、著者はグスタフ・マーラーの交響曲を挙げていました。
 次回のこのブログでは、岡田氏の指摘をヒントに、マーラーの人格と、彼の第三交響曲を取り上げてみたいと思います。
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 今度出る新刊ですが、たいへん難儀な作業を経ながら、やっと印刷の段階に漕ぎ着けました。

 ヘンリ・ナウエン著/ティモシー・ジョーンズ編
 『嘆きは踊りに変わる』--苦難のなかの希望(小渕春夫訳)

  
宗教界の用語はかくも複雑 
 このブログでは再三、キリスト教書に印刷された表記、とくに固有名詞について難癖をついてきました関係上、自らで手を抜くわけにはいきません(冷汗)。今回の初めて接した用語が二つありました。それはユダヤ教関係と東方正教会関係の用語です。
 私の周辺にはこの分野について詳しい方がいませんし、おつきあいもまったくないので困りました。それぞれ本文に、たった一回にしか出てこないのですが・・。なんとも出口が見つからないので、思い切って直接関係者に当たりました。

(1)神の呼び名 「Ribbono Shel Olom」
e0079743_033972.jpg 最初はどうしてもローマ字読みしてしまいます。リッボノ・シェル・オローム・・こんな感じかなぁー。そこでインターネットで調べたら、英語ではずいぶんヒットしますね。ハイム・ポトクの小説からナウエンが引用した箇所に出てくるのですが、ポトクが育ったユダヤ教ハシド派の用語だろうかと検討をつけました。その後、日本ユダヤ教団というサイトにぶつかりましたので、逡巡したのち電話をかけました。

 私「ええー、私はキリスト教の・・」(出版社ですと言いたかった)
 相手(せっかちで、無愛想な早口でさえぎって)
  「ここは、キリスト教じゃないよ! ユダヤ教だよ!」
 私「(ええー・・それは分かってます・・汗)。
   あのー、ユダヤ教の用語を教えていただきたいと思いまして・・」
 
 ということで、この言葉を何とか電話口で発音しましたら。やはり早口で
 「それは電話では言えないよ。こちらに来てください!」

 うわー、神の名はみだりに唱えてはいけないということを厳格に守っているのかなぁ・・とあせり、緊張しました。「はい、明日、うかがいます!」
 ということで、翌日、雨の中、伺いましたよ。

 カメラの設置された厳重に守られた鉄格子の入口で、緊張してインターフォンを押しました。間もなく用心深そうにドアが開くと、受付のユダヤ人の若者が迎えてくれました。事情を説明しますと、その方が電話に出た方らしく、腰をおろしてから、親切に教えていただきました。(本当はラビにお会いできるかと期待していたのですが・・)

 意味は、The Owner of the World ということで、現代のイスラエル人なら誰でも知っている語だそうです。そして、窮地に陥ったとき、神に訴えるためによく使うのだそうです。英語ですと「オー・マイ・ゴッ」というものですね。英語のサイトで調べると、説明が The Master of the Univers と出てきて、何かユダヤ教の神秘主義の用語かと思いましたが、そうではなさそうですね。キリスト者は、旧約の用語で聖書に出てくる神の名は、「エル・シャダイ」「エル・ロイ」とかは親しんでいますが、この用語は知りませんでした。

 教えていただいた発音から決定訳は、

 「リボノ・シェル・オラム」

 一件落着! 感謝。

(2)東方正教会の用語 「Staretz Silouan」e0079743_1651721.jpg これは、20世紀のギリシャ正教の僧侶と原文に説明してありました。ローマ字読みすると、「スタレッツ・シロウアン」(?)かなあー。これは思い切って日本ハリストス正教会に電話するしかありません。調べました。そうしたら何と当社の事務所がある、お茶の水の目の前にある東京復活大聖堂(ニコライ堂)にある本部でした。(近くにいても、まったくお付き合いないですからねー)
 その日、電話したときは、分かる人が不在ということで、問い合わせのファクスを送ることになりました。
 翌日、教会の司祭さんから電話をいただきました。そこで電話を通した音で確認することに。

 私「ええー、日本で通用している発音はどうなりますでしょうか?」
 司祭「そうですね。スターレッツ・シルワンです」
 私「え、え〜? もう一度、御願いします。あのー、みそ汁のシルに、お椀のワンですか?」と、ちょっと失礼かも知れないことを言ってしまいました。
 耳ですと間違えることがあるので、とっさに出てきた確認用の言葉なんです。

 何度か繰り返し、確かめました。どうも、耳はだめですね。書いてもらってファクスしてもらえばよかった。どうやらスターレッツとは尊称のことらしいです。「スターレッツは、日本語で何と言うのでしょう」と聞きましたが、どうやら「スタレツ」、あるいは「スターレッツ」で使うほかなさそうです。

 ようやく、これで解決しました。あとで、手元の大きな英和辞書で調べたら、「Staretz」が載っていましたよ。私は「Staretz Silouan」は、「名前・苗字」と思っていたのです。辞書の説明によると、どうやらロシア正教でも使うらしく、いわゆる「長老」とありました。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で有名な、あの「ゾシマ長老」の長老ということらしいです。(私が間違っていたら教えてください)
 へー、なんか歴史を感じますね。日本では次の関連書が出ている模様です。

 聖山アトスの修道者著/ブジョストフスキー編訳『シルワンの手記』あかし書房(1982)

 ギリシャのバルカン半島にあるアトス山の聖者でした。「アトス山」は、世界遺産にも登録された、現代に奇跡的に残っている修道院群(女子禁制)です。

 こんなわけで、一回しか出てこない用語に、こんなにも手間どりました。
 でも、広いキリスト教界の歴史に少し触れることができ、よかったです。
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