カテゴリ:黙想・瞑想・エッセー( 41 )

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 昨日、秋晴れの中、四谷の会場にて、「一日リトリート」の時を過ごしました。
 主催は「クリスチャンライフ成長研究会」。指導は太田和主事でした。

 スタッフを含め、40名弱の集いでした。今回は心と体を静めたあと、「人生の出会い、危機、転機」についてじっくりと向き合い、その意味について人生を振り返ってみました。
 全体は静かでしたが、小学時代の同級生と久しぶりに出会った方もいて、恵みのうちにこれまでの歩みを振り返ることができました。

 下の写真は、会場の中央を飾って、私たちの模範(?)となってくれたコスモス。花は花として、ただそこで無言で精一杯咲き、神を賛美していることに心が惹かれました。
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e0079743_16482625.jpg 最近出会ったケン・ランチャード著『ザ・ビジョン』から、ヒントを得て考察し、まとめています。

 ビジョンと言ってもいろいろあります。個人のもの、夫婦のもの、親子で描くもの、組織、会社・・・が思い描くもの。
 ここでは、ある目的のために存在する人々の集まり、組織、共同体のビジョンについて考察しています。

頓挫したビジョン

 M.L.キング牧師と並んで有名なビジョンは、ケネディ大統領の「60年代末までに人間を月に送る」というものです。これは人々を充分に動機付け、視覚的展望も与えました。その時点では、米国に充分な技術がまだなかったのに、大勢の人を動かし、ついに実現させ、世界を熱狂させました。しかし、なぜかそこでストップしてしまった。それ以降の米国の宇宙開発は盛り上がらなくなりました。

 なぜかというと、ビジョンに込められた真の「目的(ミッション)」が達成されてしまったからです。
 それは、「ソ連より早く人を月に送る」ということでした。それが「目的」「動機」「価値観」であったのです。ソ連との競争に勝って、世界に優位を示す国威発揚のための国家プロジェクト。熱狂はピークを過ぎてしまいました。

 それで終わったということは、逆に言えば、それは「真の」ビジョンではなかったことになります。

ビジョンに必要な「目的、価値、イメージ」
 ビジョンがいくら素晴らしくても、そこに「目的」「価値」「イメージ」が示されないと、共同体が抱くビジョンとして充分ではないと著者は言います。しかし、それらがなくても、ビジョンに力があると充分機能することもあり、それをカリスマ性のある指導者が唱えると、なんとなく納得させられてしまうところがあります。とくに、誰にも反論できない大義名分であったり、具体的な数値目標という「目標」が掲げられたりすると、人々を動機づけ、説得できることがあり得ます。
 しかし、真のビジョンは、「数値目標の力」を借りないものである必要があると本書は教えています。ただ、そのビジョンを短くした「スローガン」には「数値目標」(途中にある目印)もあり得るでしょう。

 そこで、個人のカリスマ性に依存しない共同体のビジョンであるためには、文章化することはもちろん、そこに「目的」「動機」「価値観」を反映させる必要があるそうです。

 そのときの私たちの目的は、「神の栄光のために」「全世界に福音を」との究極の願いが中心になってくるでしょうが、これらはあまり遠大、あまりに唱えられ過ぎたこともあるため、(私にとっては)実感が湧きにくい。それはそうであるにしても、その共同体、団体の存在意義がどこにあるかを絞り込まないと、あまりに茫漠としたもので、何にでもなり得ます。

 そこで、それらをなんとか自分(たち)の言葉に変換していく必要があるわけですが、そのためには、かなりの試行錯誤、祈り、聖書からの啓示を求める時間が必要になってくるでしょう。そして自分たちの想いに肉薄する言葉を発見する必要があります。
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 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(イエス・キリスト マタイ11章)撮影:クレオパ
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 私たちが「ユダヤ人」と言って思い浮かべる概念と、聖書で言っている「ユダヤ人」はまったく同じだろうか? しばらく前からちょっと興味をもち始めた。
 というのは、こんなドキッとする記事を前に読んだからだ。ほんとだろうか?

「ユダヤ人はどのようにして発明されたか」

 聖書の家系によれば、人類はノアの子孫から地球に広がった。ノアの子供たちは「セム、ハム、ヤペテ」。人類は皆、この子孫ということになる。(大洪水で他の人類は死滅したという前提)

セムの子孫への神の約束
 そして、アブラハム、イサク、ヤコブは、ノアの息子の一人、セムの子孫。そのアブラハムに対し、神は彼の子孫がカナンの地を受け継ぐという約束を与える。

 ヤコブ(イスラエル)から12人の息子が生まれ、その息子の一人、ユダがユダ族の祖。その家系がぐっと下って、ダビデ、ソロモンとなり、その子孫にイエス・キリストの父ヨセフがいる。ここでメシア(救世主)がユダ族の子孫から誕生するという預言が成就する。イエスの母マリアは、ユダ族の子孫でなく、ヤコブの子レビの子孫にあたる。

 だから、順当に行けば、現代のイスラエル国に住むユダヤ人は、セム系の子孫ユダ族ということになる。でも、リンク先のサンド氏の研究が正しければ、そうと言えないらしい。同氏は、「シオニズムは成立しない」と言っているらしいが、これはショッキングな指摘だ。

 紀元70年に、エルサレムが破壊され、国を失ったユダヤ人たちは世界に散った。およそ2000年がたつ中で、ヨーロッパでのユダヤ人迫害、ナチスによるホロコーストという想像を絶する苦難をへて、現在のイスラエル建国が実現する。

パレスチナ人の多くもアブラハムの子孫
 私の疑問は(メシアはユダ族から生まれるにしても)神が約束した「地を受け継ぐ人たち」は、現在の狭い意味でのユダヤ人だけでなく「アブラハムの子孫」であるはずでは、ということ。ならば、現在のパレスチナ人も含まれることにならないだろうか? 彼らの中に、イスラム教徒だけでなく、ユダヤ教徒やキリスト教徒もいるだろう。 かなりキリスト教徒がいることは聞いているし、サンド氏もそれを指摘している。

 ところで、セムは、現在の中近東やアジア人の祖と言われる。ハム系は、現在のアフリカ人と言われる。ヤペテはインド、ヨーロッパ語族の祖にして白人の祖。すると、現代、ユダヤ人に白人系の人が多く含まれるのはなぜ?

「ウィキペディア」によると、現在のユダヤ人には二つの大きな家系に分類されるようだ。東ヨーロッパに住み着いたアシュケナージ(アシュケナジム)とスファラディ(セファルディム)系ユダヤ人。後者は、オスマン・トルコ圏やスペイン・フランス・オランダ・イギリスなどに多い。

 それ以外にも中東地域、アジア地域、イラン、インド・中央アジア・グルジア・イエメン・モロッコ、中国、ジンバブエなどにもユダヤ人が移住している。ほかにも、まだ子孫が世界中にいるらしいから、何がなんだかわからなくなってきそう。

改宗した他民族が今のユダヤ人なのか?
 現在のユダヤ人のかなりの部分を占めるアシュケナージは、創世記10:3に出てくるアシュケナズが始祖だとすれば、彼らは「ヤペテ」の子孫ということになる。すると、アブラハムの子孫と言えるだろうか? ユダヤ教に改宗したヤペテ系の子孫ということにならないか。歴史上、東ヨーロッパの非ユダヤ人が大量にユダヤ教に改宗したという話も聞いたことがある。この点に詳しい方がいたら、教えを乞いたい。

 ということで、「ユダヤ人」と言うとき、現代はそれほど単純でない、多重な意味をもってしまう。いくつかの意味を並べてみる。

(1)現在のイスラエル国籍の人々(血筋でない。非信仰者や名だけのユダヤ教徒も含む)
(2)世界に散らされる前の聖書に登場する歴史上の人々
(3)ヨーロッパで迫害を受けてきた人々(民族。中世以前の概念)
(4)血筋によるユダヤ教徒(今日まで異教徒、他民族と混血してない人々)
(5)ユダヤ教を信じる人々。(アジア人もアフリカ人も含む)

 私たちはたぶん、以上の意味を、そのとき、その場で使い分けて使っているように思う。現在のユダヤ人は、歴史的にも血筋でも複雑にして多様。ナチスの迫害を受けた当時でさえ、すでに他民族と結婚、混血していたのだから。

 日本人で聖書を読んでいる人は、二千年の歴史をすっとばして(2)-(4)を一緒にして現在のイスラエル国籍のユダヤ人がそうだと、素朴に考えているのではないか? 私なんか、へたするとずっとそう考えてきたかもしれない。

 では、ここで神学的な考察だが、現実の多様性、複雑性を認めるなら、2000年前の聖書の世界を、現代の地理的、民族的領域に当てはめて適用することに実質的な意味はあるのだろうか?

合理的な結論では
 以上を考察し、最大公約数として考えると、現在においては、国籍や血筋でなく、「ユダヤ教を信じている人たちが『ユダヤ人』」という理解が、いちばん合理的的に思える。つまり、(5)だ。(ユダヤ教徒といっても、超民族主義の人から名だけの人までと幅広い。信徒であっても、超保守派、保守派、改革派、穏健派といる)。だから、イスラエル国籍の人は、「イスラエル人」と呼ぶほうが正確ではないか?
 つまり結論は、現代では「ユダヤ教を信じていれば、日本人もユダヤ人」ということになる。変かな〜。

 そして、私たちでさえ、西洋の絵画、映画で植え付けられた「イエス・キリストを含めた聖書の登場人物は白人」という強烈な印象は、もしかしたら間違っているかもしれない。
 たぶん聖書に登場するイスラエル民族、ユダヤ人は、もっと日本人に近いかもしれない有色人種、中東人、アジア人ではないだろうか。(きっと先人の研究に、こうした指摘はあるはず。ユダヤ人は鼻が大きいとかの現代人の抱くイメージもじつは偏見で、旧約、新約時代のユダヤ人の外貌はそれと異なっていたかもしれない)

 もしそうだだとすれば、「聖書の世界は西洋の宗教」という日本人の「思い込み」は、大きく変換されるべきではないだろうか。
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e0079743_17565674.jpg 今回でこのシリーズは最後です。

  米国の福音派ロビイストで、前全米福音連盟(NAE、本部ワシントン)の副会長だったサイジック氏は、進化論との関係についてこう述べています。

記事の全文はこちらオバマを支持する米福音派ロビーの論理

「聖書と進化論の関係について言えば、(米国の)福音派の大半は進化論に同意しない。だが、聖書を科学として見ているわけではない。バランスをとって両者を見るべきだ」

 彼が言うように、福音派の大半(英語のニュアンスはなんだろう)かそう思っているかは分かりませんが、「米国の福音派」の風潮としては、そういう流れがあるようです。ヨーロッパでは福音派であっても、あまり論争の種になっていないようです。アメリカ特有の文化問題らしいのです。

 日本の福音派は米国福音派の影響下にあります。そして、この分野での信徒向けの分かりやすい、基準となる文献が日本にほとんどないので困ってしまいます。たとえあったとしても、詳しすぎたり、特定の立場に立つ人の文書だったり(それが明示されていればいいのですが)、翻訳がわかりにくかったりで、私は過去、とても最後まで読めたものではなかった。

「創造論」に立つ人に大きく二種類ある
 神が宇宙を創造したという信仰を持つキリスト者の中に、「若い地球論」と「古い地球論」というものがあります。聖書の創世記を文字どおり受け止め、1日24時間6日間で完成したという信条に立つ人たちが、「若い地球論者」(約6000年前に宇宙が創造されたという思想)です。

 何十億年もかけて神は地球を創造したという信仰に立つ創造論者の思想が「古い地球論」。どちらも聖書を神の言葉と信じ、どちらも神が宇宙を創造したと信じています。こちらの立場に立つ人が、思想、世界観でなく、科学としての「進化」という用語を使うことがあります。

「いや、聖書を信じているなら、若い地球論以外にない。けしからん」と感情的に怒る人、排他的な考え方をする人は、社会思想、イデオロギーに飲み込まれていると見ることができるかも知れません。

 前にも書きましたが、両者の「進化」の意味が異なるのですから。

 サイジック氏は、
「私は『創世記』における『1日』が文字通りに24時間だとは思わない。『1日』は実際の1000年かもしれない」
と述べています。

 つまり、「古い地球論」。彼の主旨は、厳密に1000年と考えているといより、聖書に出てくる記述、「(神にとっては)一日が千日」を引いて意見を述べているわけです。

「公立の学校で進化論を教えることにも反対しない。聖書も教えるべきだが、科学ではなく文学として教えるべきだ。選択科目として学べば、『教会と国家の分離原則』には反しない」

という彼の意見は、記事にあるように米国の背景で述べています。日本の公立学校で「進化論」を教えるのは、ご存知のとおり規定事実。
 ただし、そこで科学用語としての「進化」をきちんと意識して教えているかは、大いに問題があると思います。第一、社会思想としての「進化」の概念がすでに一般に強固に築かれ、浸透しているからです。教師のなかに唯物史観論者もいるでしょうし。

聖書は「文学」か?
 ここで、「文学として教える」という翻訳表現は、サイジック氏の意図ではないのではないでしょうか。日本語で「文学」というと、小説、詩、おとぎ話、古文、漢文というイメージが即座に浮かぶでしょう。聖書の中に「文学」はありますが、聖書すべてを指して「文学」と名づけるのは正確でないと思います。

 ここでたぶんサイジック氏が言った「Lliterature」とは、「文書学、文献学」という意味でしょう。英語圏での 科目名「literature」と、日本語の科目名「文学」ではニュアンスが異なります。

 ということで、日本では「若い地球論者」の声、文書ばかりが配布されているので、一般クリスチャンは、他の考え方に平等に触れることができません。また出版社も思い切って「古い地球論」に立つ出版物を発行するところはまれです。
(あまり売れなく、資金もない。それに比べ「若い地球論者」の資金はどこから? まさか米国から?)

まとめ
 ということで私は、「新しい」「古い」地球論の考え方、両方の信条が現状ではあるために、その中で暮らす者としては、どちらの側の主張にも耳を傾け、文献も読めることが望ましいのではないでしょうか。その中で、自分の立場を自分で決めればよい。だだし、キリスト者同士がそのことで互いに責めず、分裂せず、互いの思想、信条を認め合えるといいと思います。

 聖書が、イエス・キリストが、人類に伝えんとしている福音の本質は、そうした周辺的な信条が「政治イデオロギー」化し、押しつけたり、排他的になったりしない限り、甚大な影響を受けることはないと思われます。

 しかしそうではなく、他の立場を認めない排他性をもたらす推進運動となったとき、先行きが少し心配になります。アメリカでは、そういうことが起こることもめずらしくないようです。(では日本では?)
 サイジック氏の今後の活躍を期待するものです。
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 e0079743_17132291.jpg「聖書と進化論は両立可能」----これは、朝日新聞に付録している月二回配布の「GLOVE紙」がサイジック氏のインタビュー記事につけた見出しだ。

記事の全文はこちら
オバマを支持する米福音派ロビーの論理

 これを論じるにあたり、とてもやっかいなことは、「進化」「進化論」という用語が、歴史的にかなり誤解され、曲解され、広く社会一般に浸透、あらゆる場面に適用されていることだ。

 だから、議論の土俵に上がる前に、「進化」という用語の概念の共通認識を抱き、同じスタートラインにつく作業は、とてつもなく困難だ。本ブログでそれができるとはもちろん思わないし、私の能力にもあまる。

「進化」って何のこと?
「進化」というこの言葉(翻訳語)は、今、日本でいろんな場面で使われ、最近、ますますその適用範囲を広げているように感じる。「発展」「進歩」「進展」「向上」「変態(昆虫などの)」「技術の進歩、改良」などの意味で、新聞の見出しにも使われたり、テレビ、雑誌などで広報されている。

 不思議なのは、ふた昔くらい前に盛んにマスコミで使用さていた「進歩」という言葉、概念が、いまや絶滅しかけ、「進化」という用語に置き換えられているように思えることである。
 人間中心主義に乗っかった20世紀に花開いた「進歩思想」(リベラリズム)が、いまやあらゆる分野でバッシングされているからだろう。

 「進化」という概念(観念)は、科学、社会学、思想、イデオロギーと歴史的にからんでいるが、通常はそれを意識せずに使われていると思われる。

 小社で今月発売した『心の刷新を求めて』で著者ダラス・ウィラードはこう述べている。
「(概念)は、時間をかけて形成され、社会的に共有される通念です。信条を含むこともありますが、信条以上のものなので、信条なしでも存在し得ます。人は概念を用いて物事について考えたり、解釈したりします。それは私たちの間に非常に深く浸透しており、人生について考え、取り組むに当たって不可欠なものです。その存在に気づかず、いつどうのように機能しているか理解していないこともよくあります。私たちの抱く思想は、文化が作り出したものです。成長過程の中でごく幼いころから受けた教育や期待、また家族や地域社会の中で見てきた行動様式を通して形作られていきます」(P.168)


ポケモンは「進化」の伝道師
 さらに、日本語の「進化」は、「(前に)進む」「化ける、変化する」という漢字が使われ、視覚的にも概念形成に影響しているだろう。テレビアニメで有名な『ポケモン』で使用される「進化」は、より上の段階に「変貌、変身、変態」することで、日々幼児たちが頻繁に耳にし、不可避的にその「概念」を形成している。

 この「進化」という用語が、歴史的に大きな混乱を招いているのではと私は思っているので、サイジック氏のインタビューに出てくる「創造論」と「進化論」を論じるに当たって、多少、「意味概念の形成」に触れざるを得ない。

 進化「Evolution」の語源は、何だろうか。そして、歴史的にどう変遷してきたのだろうか。「より強い、より良いものへの変化、進歩・発展」という「概念」を持っていると思われる、現代日本語の「進化」という理念はあったのだろうか?

 英英辞典を見ると、語源は物体の運動に関係しているとある。軍隊の部隊を再編成する動き、展開、変遷、動き。それが現代英語では、「折りたたんだものを広げる、展開する」という連想で、「発展、成長、発育、発達、進化」という意味で使われているという。

「社会進化論」の概念の日本への浸透
 日本では通常、「より高次元のものに発展、進歩、変異」という意味で使われている。「ポケモン」のモンスターにおける変身は「変態(メタモルフォーゼ 例:昆虫が卵→毛虫→サナギ→蝶と変身する)」という用語が適切だと思われるのに、いまの子供たちは「進化」という用語で表している。それは、アニメを制作した大人たち(生物学において素人)の概念を代表している。(「変態」が、「異常な性的嗜好」の俗語として普及したために、「進化」を使わざるを得ないのかもしれない)

 ただ、それを支える歴史的背景が日本にはある。明治から昭和にかけて、もともと日本語になかった「進化」(翻訳語)の概念が、社会・共産主義、自由主義(リベラリズム)、科学万能主義、唯物論、進歩史観、発展史観の色を加えながら人々を啓蒙したため、そうしたイメージが深く浸透してしまった。これは正確には、「社会進化論」に分類されるイデオロギーの概念だ。

 つまり、日本人が通常用いている「進化」の概念は、「社会進化論の概念」で、厳密な生物科学の用語ではなく、社会観(世界観)、社会思想の一つとなっている。このへんはウィキペディア「社会進化論」に詳しい。(興味がある方は参照のこと)
ウィキペディアより引用
「社会進化論(しゃかいしんかろん、Social Darwinism)は、目的論的自然観とチャールズ・ダーウィンの進化論にヒントを得て(曲解して)生じた社会理論の一種である。その社会観によれば、自然が一定の仕方で変化するように社会はある理想的な状態へと進化していくものであり、現在の社会はその途上にある、とされる。社会ダーウィニズムとも呼ばれる」

 しかもその思想は、かつての進化論者ラマルクが唱えたもので、当初から問題が多く、科学的に不十分とされてきた。
 ただその後、「社会進化論思想」も歴史をへて変質していく。以下のようだ。
「社会進化論はスペンサーの自由主義的なものから変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったとされる。その一方で、共産主義もまた社会進化論のパラダイムに則っていた。現にカール・マルクスはダーウィンに進化論が唯物史観の着想に寄与したとして資本論の第一巻を献本している」

 キリスト者を含め、科学者(専門家)でない一般人が使用している「進化」は、この「社会進化論」(社会学的思想の一つ)の概念を、あまり深く考えずに「生物学」に当てはめて理解し、論争しているように思えてならない。

かみ合わない不毛な論争かも
 このへんで糸がからまって、「聖書は誤りなき神の言葉ではないのか」「思考停止、偏狭な反知性主義の原理主義(根本主義)ではないか」と決着のつきそうもない論争が、科学的方法論について素人のクリスチャン大衆を巻き込みながら、創造科学論者(ほとんど科学者でない宗教指導者)と、有神論的進化論者(聖書信仰をもった科学者)のあいだで(現在のところ静かに)繰り広げられているように思える。

(まあ、こうした私の理解も、私なりの理解に過ぎないと言えるのだが。 なかなか、サイジック氏の発言にたどりつかず、すみません。)

期せずして、『心の刷新を求めて』の訳者、はちこさんが、ご自身のブログで最近のて米国の進化論問題を掲載中です。
「根本主義」と神のことば
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e0079743_13565581.jpg 大枠として共和党支持の米国福音派のリーダーの一人、サイジック氏が、NAEの幹部を辞めた理由の一つは、予備選で民主党のオバマ氏に投票したと彼が認めたからだという。

 なんか最近の日本相撲協会の理事選のことが思い浮かんだ。前もって選出する人を根回しで決めておいて、あとは儀式的に投票するやつです。(投票の意味ないじゃん!)
 今回は、単独で立候補した元貴乃花への投票を明らかにした理事が、理事を辞める(させられる?)との報道があった。しかし、世論からの非難があったためか(事実は知らない)、その直後に撤回することが起きた。

なぜオバマ氏を支持したか
 記事によると、オバマ氏の「中絶」「同性婚」の立場を支持したからではなく、オバマ氏が本物のキリスト者であり、政策全体について聞いてみて、賛同できない面があるとはいえ、大統領になる資質を充分備えていると判断したからだという。

 核兵器拡散に反対するオバマ氏を支持したのは、「リベラル」だからではなく、人類全体の危機回避のために、彼の思想に同意したからだという。もっともだと思う。

ブッシュ政策の間違いを指摘
 サイジック氏は、過去二回、ブッシュ大統領を支持したが、彼の個人的な意見として、

 ・(ブッシュ氏は)福音派としての資質を満たしていなかった。
 ・福音派がブッシュ氏と組んで「カーボーイ外交(善悪を決めつけて、
  暴力で悪人をやっつける)」を進めたという評判を世界に広めてしまった。
 ・イラク攻撃は間違っていた。
 ・他宗教についてどう対処すべきか理解がなく、軽視した。

 これらの指摘は、日本の福音派のほとんどの人が同意できると思う。

イスラエル問題
 もう一つ重要な問題として、イスラエル・パレスティナ問題の政治的立場があるが、米国の福音派の中の「クリスチャン・シオニスト(ユダヤ民族主義)」の活動は、和平を阻害している面があるとサイジック氏は言う。

 この問題について日本の福音派にもいくつかの声、立場があるが、だいたいは大きな声になっていなく、結局、曖昧なままである。声をあげると対立を生みだす恐れがあるからだろうか。オピニオンリーダーはいるようだが、まだ教会全般に届く明瞭な声を発しているとは思えない。
 日本の福音派の教団が、それこそ無数にある離れ島のように、つかず離れずに(ある教団は排他的に)分派していることも、声の届きにくい原因の一つだろう。また過去、中東に関係した「終末論」をめぐって、教会が大きく分裂した歴史的痛手があるので、タブーとなっているのだろうか。

 ただ、聖書の預言をそのまま原理主義的に現実に当てはめるオピニオンリーダーはいるので(海外から講師もやってくるし、国内にもいる)、「クリスチャン・シオニスト」かもしれない声だけが大きく響いているように思える。(私はユダヤ民族を尊敬しているが、「非」シオニスト。シオニストにも極右〜穏健と、幅があると思う。)
 もちろん、思想は自由でいいのだが、偏ることなく、多様な意見があることを私たちは知りたいし、情報提供される必要がある。
 サイジック氏は、今築きつつある新組織で、もっと中立的な立場を取りたいという。

 この辺の啓蒙活動に大いに期待したい。ただ日本のメディアは偏り(知識不足)があるし、情報も限られ、判断も難しい。この問題についての彼の活動は、今後注目されるだろう。

 (このへんは日本の一般マスコミはあまり取り上げないと思う。米国の国策と、政治勢力となった福音派を結びつけて批判するほうが、対岸の火事のようなニュースになるし、理解しやすい(「一神教だから」とか、「キリスト教原理主義」とかのレッテルを貼って)。また、米国の複雑なキリスト教事情や用語に詳しい記者も、残念ながら日本のメジャー・メディアにほとんどいない。)

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オバマを支持する米福音派ロビーの論理
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e0079743_16445233.jpg 続いてリチャード・サイジック氏は、「福音派は、いわゆる『宗教右派』と同義語ではない」と言う。声を大きくして私も言いたい。「そのとおり!」と。

 日本の一般の新聞、テレビ、一般出版物の多く、さらには日本キリスト教団系の指導者、メディアの理解も、同義語として扱っていることがまだまだ多い。これは困る。現実はもっと複雑だ。
 
福音派内の政治的視点からの区分け
 「全人口の25~30%といわれる米福音派のうち、<伝統主義者>は約4割で、政治への関与が強い宗教右派はこの中に含まれる。別の約4割は<中道主義者>で、残りの2割が<近代主義者>といった具合に分けられる」と新聞には訳されいてる。

 しかし、この<伝統主義者><中道主義者><近代主義者>とは何か? これも翻訳が変だと思う。これでは理解しにくい。頭の中で修正して読まなくてはならない。20世紀の<共産主義者><社会主義者><実存主義者>などのような思想的な「主義者」が、米国のキリスト教会にいて、自称しているわけではないだろう。これは、「伝統派(右派を含む)」「中道派」「近代派(左派を含む)」で充分。福音派の中でも思想傾向、政治的立場の違う人々がいるということだ。(「近代派」はぴんとこないが、原語は何だろうか?)

 日本の一般マスコミで政治的右翼の宗教カルトのように使用され(その機関誌が『百万人の福音』とされたり。汗)、ブッシュ政権を支持したとされる「福音派」とは、この「伝統派」の中に含まれる政治指向の強いグループが該当する。さらには「伝統派」の中にも、極右から心情右派まで幅があると思う。そして、それに影響を受ける形で、次の「中道派」がいる。

 「近代派」は、社会的福音派と呼ばれる、ジム・ウォリス氏などの活動家が含まれるのではないか。これには非暴力、兵役拒否、平和主義者が含まれるだろう。

 サイジック氏は、「テーマによって、<中道>だったり <伝統>だったりする」という。そして、代々の共和党大統領とその支持者は、福音派を何とか自分たちのグループにしようと、「中絶反対」「同性愛、同性結婚反対」のスローガンをあげて、票の取り組みを行ってきた。そして、サイジック氏は、「福音派の票を共和党に与えたことで、最終的に福音派がどこまで恩恵を受けたのか、個人的には疑問に思う」とさえ言う。世界的に見ても、そのとおりではないか。福音派の評判を落とした。

同性婚とシビル・ユニオンの違い
 全米福音派連盟(NAE、本部ワシントン)の副会長を辞めたきっかけをサイジック氏は書いている。「ラジオ番組で『同性カップルに結婚と同様の法的権利を与える シビル・ユニオン(同性の同居?)』なら支持できると発言したことだ」と。決して同性婚を支持したのではなく、同性カップルに法律的な不利益を与える差別に同意しない、と言ったのだ。

 福音派であって、「同性愛者婚(ゲイ・マリッジ)」は支持しないが、異なる性的指向を持つ人が、「法の下の平等」を持つべきだとした。ただこれが、NAEの右翼的幹部から嫌われたわけだ。しかし、

 「何百万人もの米国人にすれば、異論はないだろう。そのうちの多くは、福音派のキリスト教徒だ」

とサイジック氏は言う。つまり、「福音派指導部の一部の右翼によって、NAEとして政策反対(マスコミ報道される)を決めても、その傘下の多くの福音派信徒は賛成してくれるだろう」ということだ。なるほど、私もそう思う。

「福音派は、共和党という一つの政党にあまりにも従属的な存在になってしまった。我々が新たに目指す福音派組織は、同性婚や中絶の反対といった狭いテーマで なく、全体的なテーマを扱う。そのためには特定の政党支援やイデオロギーから独立すべきだ」という主張は素晴らしい。

立場の異なる人との協力
「福音派ロビイストとして様々な法整備を進めたが、その際、個別の問題では我々と立場を異にする人々と協 力してきた。(略)チベット仏教徒やユダヤ教徒、イスラム教徒らと協力したし、(略)ゲイやレズビアンらと協力した」という彼の立場。

 政策によっては協力はするというありかた、これは大いに支持できるし、世界の現状を見るとき、そうしなければ、「独善」「エゴイスト」「愛がない」「冷血」「無知」と言われてもしかたがないだろう。
 それは、聖書が教える神の国、神の義が世界に拡がることと矛盾しない。

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オバマを支持する米福音派ロビーの論理
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 「毎年、3万人以上」という言葉はよく聞く。しかし、もうちょっと詳しい実態を知りたい。そんな私の関心に答える記事を見つけた。

 毎年、三万人以上が自殺する経済大国、ニッポン。なんと、それが12年続いているらしい。70パーセント以上が男性だ。

 自殺と認定されるにはある条件があるそうだが、未遂に終わった人を含めれば大変な数になると思う。
 未遂の数まで含めた統計を知りたかったのだが、やはり以下の取材記事にそのことが触れてあった。
 なんと、10倍以上ですと。

 ネット情報だが、亡くなって「一日以内」、そして「遺書」がないと、「自殺(自死)」と認定されず、統計に反映されない。それに、警察の捜査員や解剖医などの不足から、いくらがんばっても、それくらいの数までしか判定できない限界があるらしい。だから毎年三万人という、妙に一致した統計。。

 政府があまりはっきりした内容を出さないのは、国際的に恥ずかしいからだろうか。あるいは、メディアがとりあげないのだろうか。あるいは、あまりに社会が注目すると、かえって促進してしまう懸念が高まるからだろうか。今年から、この3月を「防止キャンペーン」と政府が名付け、テレビCMを流したり、ポスターを貼ったりしているようだが、その効き目はどうだろうか。根本的な対策になるだろうか。

 状況はこれからも変化ないかもしれないが、追いつめられたお父さんたちへの逃げ場、家族を支える人生の選択肢が広がらないと解決は難しいだろう。また、年代によって動機はさまざまだろうし。

 ただ、祈り、すがることのできる存在、窮状を訴えてよい存在があることを、もっと多くの人が知ってほしい。
 信仰の果たす役割りは大きいと思う。いや、ほとんどの人は祈っているかもしれない。ただ、その叫び、祈りを、誰にぶつけたらいいのかわからないで祈っているのかもしれない。

「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。これは他のアジア諸国やキューバでもみられる傾向だ」(WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士)

「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。サムライは自殺を気高いものと見なす(たとえ、それが捕虜となってとんでもない扱いを受けないための利己心からだとはいえ)。仏教や神道といった日本の中心宗教は明確に自殺を禁じていたアブラハム系信仰と異なって、自殺に対して中立的である」英エコノミスト誌(2008.5.3)

自殺大国ニッポン、各差社会で死に急ぐ男たち

「死にたい」と言う人に、道徳的対応は無益

年代別自殺率 60歳以上が37パーセント

国別自殺率 世界第6位
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(以下の文は、クリスチャンライフ研究会の会報『風の色』19号(2009/8月号)用に執筆掲載したものです。少しの修正を加え、ここにアップしました)

e0079743_11133542.jpgかつてヨーロッパに存在した奇跡的な教会
 私たちが通常、普通と思っている教会の制度、スタイル、霊性は、様々な文化の影響を受けている。プロテスタント教会のあり方は、西方教会の流れにあり、ローマ・カトリックが吸収したローマ文化の影響を多く残している。もちろん、それがすべて悪いという意味ではなく、それを自覚することが大切だと思う。

 西欧にあってローマの影響から逃れた奇跡的な教会があった。アイルランドを主とするケルト系教会だ。民族の文化を取り入れながら、独特のキリスト教霊性を育んできた。私たちは音楽を通じて、いくらかその雰囲気に親しんでいる。エンヤ、ケルティック・ウーマン、リバー・ダンスなどの音楽は、その雰囲気を今に伝えている。賛美歌にも「試みの世にあれど」「アメージング・グレイス」など、郷愁を誘うメロディ(五音階)が、その香りを残している。

 ケルト系教会の隆盛は、5〜9世紀で、その後はヴァイキングの侵略で衰え、続くカトリックやプロテスタントの勢力に押され、その形態は千年前に地上から消えた。しかしその精神文化は、ヨーロッパ精神の一つとして脈々と受け継がれている。現在、自然破壊の元凶として批判されるキリスト教の中で、自然と調和し、豊かな霊性を持つケルト系教会を見直す運動が起きている。

その持つ霊性の特徴
 ケルト教会の信仰生活の 特徴をいくつか挙げると、「共同体」「物語」「友情」「象徴」「冒険、旅」である。ローマ教会はローマ文化の影響を受け、中央集権的ヒエラルヒー築いた。ケルトは、部族の集合体であったため、部族ごとに修道院(共同体)を設置し、その院長を中心に活発な宣教活動を行った。

 ローマ的伝道は、福音を宣べ伝えるとき、「こちら、あちら」と捉えて対面し、対決的に議論、説得し、それを聞いた人が一定の条件を受け入れ、それに従う誓約をしたら教会(共同体)に加える。ケルト教会は、最初から共同体に迎え入れ、生活を共にする。異教徒はキリスト者の生活が示す魅力に惹かれ、質問をし始める。そして、あるとき自分が信じてることに気づき、洗礼を受け、教会に加わるという。

 「ソウル・メイト(魂の友ーアナムカラ)」という言葉も、ケルト教会にルーツがある。文字をもたなかったため、口承による豊かな物語文化を持つ。航海をよくしたので、外に出て行く冒険精神や、人生を心の旅に例えたりする。海外宣教も活発だった。

 教理が不確かだったり、悪影響が出るほど異教的要素を混ぜてはいけないが、独自の文化を生かし、今も私たちの霊的渇きに応えてくれそうな霊的遺産を持つケルト系教会は、これからも私たちを魅了し続けるだろう。(参考文献:The Celtic way of Evangelism by G,Hunter. Wikipedia他)
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