カテゴリ:神学・霊性( 38 )

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 前の記事が長すぎたため、読者の負担を減らすために分割してみました。

目的
 ビジョンには、「自分たちは何か、存在意義(貢献)、使命(ミッション)」、そして「何を」「なぜ」が必要になってきます。漠然と夢を抱くだけは、誰でもできるわけですから。何のために召し出されているか、具体的に自分たちの貢献は何かを明確にしていく必要があります。
 これは簡単な作業ではありません。以前記事に書いたベストセラー、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーを読んだら』にもあるように、「顧客は誰か」も深く関係してきます。

価値
 次ぎに、何を大切にするか、どのように活動するかも、とても重要になります。それは貢献の過程で威力を発揮します。
 ある宣教団体では、どんな素晴らしいプロジェクトであろうと、そこに犠牲者が一人でも出そうなときは、プロジェクトを即座に中止するか、いちから見直すそうです。家族、本人の健康、人権、それらは目的達成の犠牲となってはいけません。
 そいういう意味で、動機づけ、判断基準、行動指針、優先順位を知るために、どうしても「何に価値をおくか」を充分共有することがなければ、犠牲者を生み出すおそれがあります。

 これまで、もしある団体に「独裁化、カルト化、独善化、犠牲者」が生じたとしたら、この「価値観」を明瞭にしないでいたことが、多いに関係あるかもしれません。

 目的を達成したいときに、「どのようにそれを生き、どう行動すべきか」を価値は教えます。価値観がはっきりしていないと、どう実践すればいいか分かりません。そうでないと価値観を体現してそうな特定の人物が祭り上げられ、権限の集中を招き、判断、決断のすべてをその人に依存するようになり、残りの人は「物まね」「追従者」になってしまうでしょう。

イメージ
 ビジョンには、イメージを喚起するものが含まれます。どうなって欲しいか、どうなることが終着点かのビジュアライゼーションが、そこになければ永続的な方向性が示されません。「では、次ぎにどうしたらよいか」という、なすべき行動へのイメージが失われ、ビジョン達成というより、目標達成で終わってしまうことになります。この点、M.L.キング牧師のビジョン(夢)は良い例となるでしょう。

 しかし、言葉にしただけではだめです。額縁に飾って終わりになりかねません。私もずっとそうでした。
そうならないためにどうしたらよいか、そのことも『ザ・ビジョン』に親切に書いてあります。よくできた指南書だと思います。そしてキリスト教色も濃い。

まとめ
 集団の存在意義にかかわる目的にコミットしようとする関係者が、その団体が行う社会貢献を通して生き生きとし、賜物や才能を発揮し、創造性を育て、人間としての成熟や生き甲斐を発見し、さらに「目標達成を越えた永続性」をそこに見いだすとき、初めてビジョンは本来の機能を果たすと言えるのでしょう。


 これまでビジョンと言われても、なんか眉唾で捉えていた私がですが、ここまで教えてもらえると、自分の加わっている教会、団体、仕事のビジョンは何か、家族のビジョンは何か(それぞれに、すでに与えられていると思われる)、おそまきながら自分でも明確化し、言語化していきたい気持ちになってきました。

 『ザ・ビジョン』から刺激を受けた、自分なりのまとめでした。 
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e0079743_1824446.jpg 前記事で、「ビジョン」に触れましたが、少し前、『ザ・ビジョン』(ダイアモンド社)といいう本を手にしました。『一分間マネージャー』などの著作で有名な、ケン・ブランチャード 共著によるもので、読みやすいストーリー仕立て。厚さも、読みやすさも手頃。
 創業者の父から事業を受け継いだ二代目社長が、いかに創業者に劣らない会社の活力と社員のやる気を引き出すかという奮闘を描いています。

 そのために、「ビジョン」を明確にし、それを社内に浸透させる流れで物語が進みます。「そんなにうまくいくか?」という疑問はあるにしても、とんとん拍子でことが進みます。この本の狙いは、意味のある、機能する「ビジョン」ということを、分かりやすく読者に伝達することです。
 そこから教えられたことにそって、以下を記述します。

なぜビジョンなのか
 納得できたのは、なぜビジョンを必要とするか。会社が一応、安定し、さらにリーダーシップの交代があるとき、「創業者の影響力、人間力、魅力、カリスマ性に依存しない」活力が求められます。
 「私たちは何であり、この世界でどのような貢献が求められているのか」を全員が共有できるかどうかが問題になってくるわけです。
 個人の影響力から脱却し、いかに組織を有機的に発展させ、潜在能力を発揮させ、個々の構成員に、生きがい、使命を与えるために、「ビジョン」が必要になってくるということです。

 これに対し、ある強烈な個人が「幻(ビジョン)」「預言」「夢」「啓示」をかかげ、「俺についてこい」式に組織(教会)をひっぱっていくことがあります。そこには指導者の願望の実現、独裁、メンバーの利用が入りこむ余地があります。この点は、村上牧師のブログ記事が興味深い考察を深めています。「村上牧師ブログ 啓示」

 しかし、本当のビジョンとは、個人の指導力やカリスマ、個人の自己実現、煽動に依存しない、「キリストの民(共同体)が抱く夢であり、幻であり、展望」なのです。指導者はそれを代弁しているに過ぎません。

ビジョンとは何か
 ヴィジョンとは、言葉からも分かるように、かなり視覚的なものであることが分かります。これは聖書の黙示録にふんだんに散りばめられていて(1章、21章など)「聞いた」「見た」など、非常に視覚的な記述がいっぱいです。

 本書では、歴史を変えた有名なヴィジョン、世界を動かしたビジョンとして、M.L.キング牧師、ケネディ大統領の宣言を取り上げています。

 「仮に困難が待ち受けていようとも私には夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした、ひとつの夢です。私には夢がある。 「万人は生まれながらにして平等である。これが自明の理であることをここに保証する」、この国家の基本理念(Creed)を真の意味によって実現する日が来るという夢が。(以下、映像では少し欠けがある様子)
 私には夢がある。いつか、ジョージアの赤土の丘に元奴隷の息子たちと元奴隷所有者の息子たちが一緒に座り、友愛のテーブルを囲む日が来るという夢が。
 私には夢がある。いつか、あの差別の熱にうだるミシシッピー州さえもが自由と正義のオアシスに変わる日が来るという夢が。私には夢がある。いつか、私の子どもたち4人が肌の色でなく中身で判断される、そんな国に住む日が必ずくる。
 私には夢がある。 差別主義者がはびこるアラバマ、知事は口を開けば州権優位、実施拒否で忙しい、そんなアラバマにもいつかきっと、幼い黒人の少年少女が幼い白人の少年少女と手と手を取り合って兄弟のように仲睦まじく暮らしていける日が来るという夢が」→引用先 全文 演説映像16分


 今でも身体に震えがきそうな、なんと壮大で、感動的な「ビジョン」でしょうか!

 ビジョンとは、未来に実現するだろう風景が、あたかも現在の私たちの目の前で、リアルに展開して見えるかのような展望のこと。私たちはそれに心の奥底から感動し、動機づけられ、何らかのアクションを呼び起こさずにおれない。

ビジョンを短い言葉で表したものが「スローガン(標語)」
 この風景、将来への見通しを、短い言葉で表したものが「スローガン」です。そこで、数値的なものを上げることが多いですが、それは、その先に見える風景を含むものであることが大事です。
 数値達成に人生をかけたい人は、途中で、精神的、霊的枯渇を招くでしょう。

 「1000人教会」「この地域に10の教会を」という数値目標スローガンは大きなチャレンジで、勇気を与えますが、「それでどうしたいのか、それがどうなって欲しいのか」がなければ、「魂」が脱落します。単に10個の教会堂(入れ物)を建てて満足という意味ではないでしょう。その「魂」が脱落していないものが、「単なるスローガンに終わらないビジョン」と言われるもの。

 その「数値目標」は、富士の頂上(ビジョン)に到達しようとするときの、五合目に相当する目印。「単にスローガンに終わらないビジョン」であるためには、ふもとから眺めた五合目のかなたに、頂上が重なって見える必要があります。
 そのときはじめて、数字は人を動かすものになります。
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e0079743_1571626.gif感動の教会論
 しばらく前に読んで大変感心、感動した「現代教会論」のブログ記事があります。といっても、私にそんな評価ができるほどの権威も見識もなく、いくつかの教会生活を続けて「〜十年」という単なる信徒に過ぎません。あくまで、「私がそう思う」というだけの話ですが。

 私が「抜群」「出色」と思った、「近未来のあるべき教会の姿の一つ」を紹介くださったのは、このブログもリンクを張っている「小さな命を守る会」の水谷牧師です。
 
 最下段にリンクを張った二つの記事をお読みください。また、それぞれの記事には他の記事にリングがあり、それらを含めるとかなり量ですが、少なくても「牧師と信徒これが見本かも(1)(2)(3)」は読んだほうがいいと思います。

 これを読んで私はさっそく、「リバイバル・ジャパン」誌の取材記事が載っている9月15日号を買いに走りました。(現在、ネットで全文読めてしまいますが。) リバシンさん、これらを記事にしてくださってありがとう。

言葉の迷宮 
 そして、「ふむ、ふむ」と思わせる気づきがありました。それはおもに、「ビジョン(展望、幻、夢)」「コアバリュー(価値観)」「共有」「スローガン」「使命(ミッション)」「目的」「目標」「計画」「方策(戦略)」などが、有機的に機能しているのかもしれないという点です。

 ただ、それらの定義について、なかなか教会内で論じられることないので、キリスト者共同体の間でも共通認識がないようで、使用方法が混乱、あるいは曖昧に思えてなりません。だから、こうした話題は、分かるようで、なかなか明瞭には分からない。

 大事だとは分かるのですが(「目的主導の教会」という言葉もよく聞きます)、各自、さまざまな定義、感覚、主観で使っている模様なので、何を指して言っているんだか不明瞭なまま話題が進みます。ですから、議論も不毛に終わる気がしてなりません。きっと「外国から入ってきた用語、概念」だからなんでしょうね。

「ビジョン」てなんですか?
 「あなたのビジョンはなんですか?」「あなたの教会のビジョンは?」と、ときどき話題になりますが、これって、なんなのでしょう? 何を指して「ビジョン」と言うのでしょう。なんで日本語でないのでしょう? 現代経営学の手法でしょうか? それとも健全なツールでしょうか? 「ビジョン」と「目的」と「価値」と「使命」「ミッション」の関係は? それとも、そんなことごちゃごちゃ言わんと、何となく伝わればいいの? そこに何か異質なものが紛れ込んでしまわないか? 「誰か交通整理して〜!!」と叫びたい思いです。

 そういう迷いにあった私は、これらの定義をすっきりまとめてくれたビジネス書と最近、出会いました(ビジネス書に頼らねばならないのですね〜)。なので、それを題材に自分のためにも、これらをすっきり整理するため、今後何度かブログ記事を書いてみたいと思います。(と言いながら、スローライフ実践中でして、あくまで希望ですので、あまり期待しないでね。)

小さな命を守る会ブログ
本ブログ紹介の教会が「リバジャパ」に掲載
聖書的リーダーシップについてもう一言
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e0079743_1842174.jpg 最近の朝日新聞に月二回付録としてついてくる「Glove」という読み物がある。
 前回、米国の福音派の動向について、とてもバランスが取れていると思われる記事が載った。

元米国福音同盟の副会長の言葉
 それは長い間、全米福音派同盟(NAE)の副会長を努めたリチャード・サイジック氏の投稿である。この1月に、同志社大学のある研究センターが招いたという。

 彼の主張の一つは、「創造論と進化論は両立する」という立場。NAEといえば、日本で言えば日本福音同盟(JEA)にあたる。ビリー・グラハムやノーマン・V・ピールに影響を受けたボーンアゲイナーだ。現在は、「ニュー・エバンジェリカルズ」という組織の代表をしていて、ロビイストでもある。

 冒頭に彼は、「福音派とは、保守的な信仰理解に立つ米国のプロテスタントで、聖書を本当に神の言葉として信じ、宗教的体験で開始した人のことである」と定義する。これは広く許容される定義だろう。世界的にそのような人が多いのだがら。ただ、「米国のプロテスタント」という点が違いを生むことになってくる。

普通のプロテスタントとは?
 続いて、「普通のプロテスタントは、聖書を神からの言葉とは考えないし、回心体験の必要性を強調しない」とあった。これは「普通の」は誤訳ではないか。この「普通の」は、日本語だと「正常な」とか、「本流の」とか、「正統的な」とか、「おおかたの、ありふれた」といったニュアンスがあると思うが、そうじゃないでしょう。

 「普通」の反対の「普通でない」は、「変な、変わった、特異な」というようなことになってしまう。過去、何百年も続いてきたプロテスタントは、その多くが、「聖書は神の言葉」と信じてきた。20世紀になってから、プロテスタントの一部(ヨーロッパ発祥)が、考え方を変えてきたのだ。しかも、そうした考え方の神学は、神学者アリスター・マググラスも言うように、今や勢力を失ってきて、学問的貢献は優れていても、マイノリティに位置づけられるようになっている。

 だから、続く記事中、「(米国の)全人口の20-30%といわれる福音派」という言葉と矛盾してくる。これだけの割合で、名前のみでない自覚的キリスト者がいるとすれば、「普通でない」ではなく、歴史的、正統的な「普通のプロテスタント」ではないだろうか?
 ただ、いろいろな政治的立場、社会的スタンスにおいて、「米国の」という臭いが加わることになる。

 そうした米国の福音派の政治的立場に、いくつかの流れがあることを(彼もその一つ)、続く記事の中で触れている。それは次回に。

追加:
ネット友達、谷鹿さんが教えてくださった同記事。そう。これです。
オバマを支持する米福音派ロビーの論理
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 先週から、いよいよ始まった「牧会塾」(サイトは更新なっていませんが、現在定員いっぱいですので、後期の受講生を募集中。)

 まったく初めての試みであり、どういう反応があるか関係者は未知の道を歩んできましたが、なんと受講者は各クラス、定員いっぱい集まりました。(東京、お茶の水クリスチャンセンター)
 ほんと、必要とされていたのですね。

 坂野慧吉牧師クラスー「牧会学の基本」(火曜午前)
 堀肇牧師クラスー「臨床牧会学」(火曜午後)
 太田和功一CLSK主事クラス「牧会者・伝道者とその霊性」(金曜午前〜午後)

が、主要な内容ですが、遠くは新幹線で参加する方や、片道二時間以上かけて参加する方もいて、並々ならぬ感心の高さがうかがえます。(写真は、今週の堀クラス)

本音や現実が行き交う出会いの場
 内容は、ほかでは聞けない実話や体験談を豊富に取り入れ、それだけに録音をお断りし、その内容を不注意に外で話さないよう受講生にはお願いしてあります。その場限りの貴重なお話がたくさん聴けるようです。
 またベテランの講師の皆さんは、それぞれユニークな進め方を工夫し、一方的な講義でない受講生とのやりとりがあります。受講生も、若手から経験豊富な方まで、幅広く散らばっています。

 参加者の反応も大変よく、後期を申し込むかどうか迷っていた方も、帰り際に後期の受講を申し込む方もいました。また、都合で参加できない日がある方は、ほんとに残念でたまらないような様子でした。
 私は休み時間に少し顔を出し、受付を手伝ったり、本の販売などをさせていただきました。

支援の必要
 この講義中、主催者としてつねに世話に当たっている森直樹牧師夫妻の献身ぶりには頭が下がります。
 特定の支援団体などを背後にもたず、不偏不党の立場で、自由な空間を作りだそうとなさっています。経済的には、まだまだ大変ですので、個人、クリスチャン企業などによる、こうした働きのための支援を募っています。→「友祈会」
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 今月の初旬、研修会に参加したのですが、そこで講師から学んだことを少しまとめてみます。「神の国」についての学びでした。
 イエスが伝えた中心的な教えである「神の国の福音」が、今日、あまり教会で語られないのはなぜか、そして、その性質は何かということでした。たしかにそれは興味深い事実です。

歴史的にも少ない
 初期キリスト教の精神的遺産として伝えられているもので、まず第一に挙げられるのは「信条(信仰箇条)」です。「信条」とは、信仰の基本を短くまとめて言い表したもので、ニケア信条が代表的なものです。
 異端問題へ対処するために、大きな会議が何回も開かれ、取り決められました。ただし、改訂版を含めていくつかある「信条」の中で、「神の国」について触れているものはたった一個(!)だけということです。

 つまり、ローマ帝国下のキリスト教会に始まって、今日の世界のキリスト教世界に大きな影響を与えているアメリカの教会からも、失われているというのです。「神の国」というメッセージが真剣に受け止められたら、「外国に十字軍を派遣するという発想は生まれなかったのでは」と講師が指摘しました。
 私としては、完全に忘れられたということでなく、「強調されなくなった、注目されなくなった」ということだと思います。教えの本質は、いろいろ形で信仰者の生活に浸透していると思うからです。ただ、「神の国」という世界観は、まだあまり・・・と思えますが、どうなんでしょう?
 (イエスの伝えた「国」とは、国境で区切られた地域でなく、神の統括が及んでいるところという意味)

イエスの宣教の中心的な指針
 イエスは新約聖書のなかで、100回以上言及しています。イエスの公の活動は「神の国の福音」を伝えるためでした。マタイ4:23では、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」とあり、ルカ4:43では、「イエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」とあります。

 主の祈りの冒頭にも「御国を来せたまえ」と最初に出てきます。イエスの復活後、40日にわたって弟子たちに「神の国」(使徒1:3)を教えたとあります。

神の国の福音を聞いたのは誰か
 イエスは活動の初期、パブテスマのヨハネから洗礼を受けてのち、悪魔からの誘惑を受け、その後にナザレに帰り、さらにガリラヤ地方のカペナウムに引っ越しました。これは、マタイ4章に書いてある以下の言葉のとおり、旧約の預言の成就です。

「『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った』(イザヤ書の引用)この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』

「異邦人のガリラヤ」とあるように、この地域には、かなりの異邦人、異教徒が住んでいました。
 続く、マタイ4:23-25、5:1では、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。
 5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。


 この聴衆は、ここにあるように、「ガリラヤ(異邦人が住む)、シリア全体(異邦人の国)、デカポリス(アレキサンダー大王の軍隊が進駐し、異教徒が作り、住んた10個の町。ギリシャ語→デカ=10、ポリス=街)、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸」から集まりました。
 この群衆の前で、あの有名な「山上の説教(神の国の福音)」が語られたのです。当時の地域的特徴を見て、聴衆の3分の2(!)は異邦人(異教徒=ユダヤ教徒でない)だったのではないかとの見方があります。

ユダヤ教徒に評判がよくなかった「神の国の福音」
 「神の国の福音」は、当時のユダヤ教徒に嫌われたようです。その証拠に、そのことによってイエスが逮捕される原因にもなりました。
 こうした当時のユダヤ教徒の反応に、イエスは、嘆き悲しんでいるのがわかります。

「ああコラジン、ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう」(マタイ11:20-24)

 コラジン、ベツサイダ、カぺナウムは、当時、ユダヤ教徒が多く住む町。ツロ、シドンは、異邦人が住む町だったのです。決定的な言葉は以下のようです。
「だからわたし(イエス)はあなたがた(当時のユダヤ教徒)に言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」(マタイ21:43)

e0079743_19215881.jpg異邦人こそが福音を聴く
 こうなってくると、当時からイエスは、同胞のユダヤ教徒にまず第一に伝えたかったものの、「神の国の福音」は異教徒、異邦人こそが受け入れ、その祝福を享受する人々であると分かっていたと言えます。

 つまり、非キリスト教の影響が支配的な日本の私たちも、「異邦人」「異教徒」なわけですから、イエスの福音は最初から、私たちに向けても語られていたことが分かります。
 そういう角度から改めて「山上の説教」以降の「神の国の福音」を読んでいくなら、これまでと、ぐっと異なった音色で聴こえてくるのではないでしょうか。 (引用聖句は新改訳)
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 大変興味深いブログを読みました。「キリスト教世界観ネットワーク」の最新記事で、進藤恵美子牧師が、これまでの信仰生活を振り返り、よりバランスのとれたあり方を求めて、これからは包括的な福音理解に立った歩みをしたいと述べています。「素晴らしい世界」
 私は「霊の戦い」となじみはありませんが、読んでいて、本当にそうだな〜と思いました。

e0079743_21573513.jpg 最後に引用されている、ルイ・アームストロング作曲の「What a Wonderful World」の歌詞の全容を、ここで始めて知りました。人生肯定の希望が素晴らしいです。

進藤師の文は長いので、私なりの要約を下に記します。( )内は私の解釈。

(1)不思議といやし、霊の戦いの・・の運動に加わった。それは大きな恵み、解放、癒し、喜びを体験する機会になった。

(2)しかし、祈り、霊的戦い、救霊活動・・だけが価値あるものとなり、日常生活、介護、育児の価値などが相対的に低められた。隣人への愛や地上で果たすべき使命との結びつきも見失うようになった。

(3)「キリスト教世界観ネットワーク」のサイトを通じて、キリスト教信仰と思い込んでいたものが、実は異文化(二元論的世界観)が混入していたに過ぎなかったのではと思うようになった。
 
(4)生活の現場に神様から委ねられた働きがあることを認識し始め、主が創造されたこの世界の美しさを再発見するようになった(一元論的世界観)。聖書は、神の創造の目的は揺るぐことがないと一貫して語り続けていて、希望と生き甲斐を与えてくれる。

 以下、本文より一部引用させていただきますが、興味のある方は、リンク先で全文をお読みくださいますよう。(以下、改行、一行空きはクレオパ追加)

「滅んでしまう地上でのクリスチャンの使命は、滅び行く魂に対する宣教である。祈りと悔い改め、礼拝と霊的戦い、そしてそれらの事柄に携わることだけに価値がある」

 この価値観で測られると、介護や子育てに追われる日々を過ごしている人たち(私も経験したことですが)、時間的にも体力的にも余裕のない人たち、環境や状況のハンデ、経済的・知的ハンデがある人たちは、同じクリスチャンであっても、部外者であるかのような疎外感を感じてしまいます。

 教会からの援助と励ましをより必要としている人たちなのに! しかも「この世界はサタンの支配下にあるから・・」とサタンの働きをあまりにも過敏に意識して霊の戦いに明け暮れていたために、与えられている家族や人との繋がり、日常生活で現すべき隣人への愛や地上で果たすべき使命さえも後回しになってしまう危険を感じるようになりました。

 しかし結局、霊の戦いと、魂の刈り取り以外には価値を見出せないような世界にいたため、次第に、心身ともに疲れを覚えるようになり、家庭生活にも歪みが出てきました。(「素晴らしい世界」

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e0079743_16144136.jpg 先に本ブログでも記事にしましたが、牧会塾の来年開講に向けて、今週の火曜日、「プレスクール」という催しが、お茶の水クリスチャンセンターでありました。

 僭越ながら私も、「牧会塾が出来るまで」と題して、このプロジェクトが生まれた背景、これまでの歩みについて、主催者側の一人として、冒頭に5分くらい話させていただきました。

 お手伝いも含めると、総勢120名くらいの方々が出席し、テレビカメラが二〜三台、メディア関係の記者もちらほら目にしました。(主催者の想定50人、資料100組準備)

 内容は、全体がなごやかで、笑いあり、まじめな話あり、オフレコの場面あり、お茶の交わりあり、黙想の時間あり、みことばの朗読ありと、充実していました。(写真:「パネルディスカッション 心の時代とこれからの教会」の場面)

 これまで、キリスト教団体が主催するパネルディスカッションを、聴衆として何回か参加したことがありますが、今回は進行役がいて、全体を導いたので、とてもよかったです。会場とのやりとりも、割とスムースいったと思います。

 牧会塾の精神は、「パーソナル(個人)、フラット(関係)、プロセス(結果でなく)」大事にします。お互いに「先生」と呼ばないことを原則にしています。今日は、「言ったら罰金500円」と宣言した司会者が、講師の名をお呼びする機会が一番多かったので、自らに罰金を重ねていました。(笑)

 お帰りになった皆様を見て、満足そうなお顔だったので、何かしらの恵みを受けて帰途につかれたのだと思われます。当社のナウエンの本も販売させていただきました。

 かなりの準備が整い、足りないのは受講生の申し込みと資金だけです。(って、これが肝心ですが・・・。)
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e0079743_11574115.jpg 一年くらい前から、微力ながら私も立ち上げをお手伝いしてきた「牧会塾」という学びの場が、来年4月に開講されます。事前のお披露目の場として12月9日、「プレスクール」というものを東京、お茶の水クリスチャンセンターで開催の運びとなりました。
 ステキなサイトもできました。

 プレスクールでは、おもな講師となる方をお招きし、それぞれの講座の案内や構想を話していただき、第二部として、パネルディスカッションが行われ、ます。

 本塾の構想については、クリスチャン新聞で大きく取りあげられました。牧会者だけでなく、信徒が受講できる講座もあります。
 複雑化する現代の教会のありかた、牧会のありかたを、経験豊かな牧師がたを中心に、受講生と共に模索する出会いの場となることを願っています。

 これからどんなことが起こるか、楽しみにしています。
 
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 先週の火曜日夜、水垣渉先生(キリスト教学・京大名誉教授)を招いてのセミナーが開かれた。「クリスチャン成長研究会」「牧会塾」による共催だ。
 部屋の関係で定員があり、今回は約25人の参加であった。
(「牧会塾」は、いま準備中の働きで、いつかブログでも触れたい。)

 このセミナーが開かれるきっけは、6月に本ブログでも触れた『初期キリスト教とその霊性』の著者が上京するということによる。
 参加者は前もってこの著作を読み、質問を提出してあったので、その質問への解答という形で、セミナーが進んだ。

 自分のためにも学んだことをいくつか記しておきたい。文字通り先生が言ったというより、私なりに言葉にした文章なので、間違いがあるかもしれません。
 長くてすみません。

(1)聖書とその解釈
 後世の思想をもってきて聖書を理解するよりも、聖書それ自体の範囲で理解し、説明する作業が必要ではないか。たとえば、「主観」「客観」というような、後年に使われるようになった解釈で、あまりに聖書を区分けして見てしまうと、聖書のメッセージから命が失われてしまうことになるだろう。
 難しくはあるが、聖書にある考えで、聖書を理解しようとすることが大切。
 聖書から教理を導き出すにしても、教理で聖書を解釈しないほうがよい。聖書の上に、後世の思想の影響を受けた教理を置いてしまう危険性があるからだ。

(2)字義的解釈と比喩的解釈と霊的解釈
 宗教改革以降、どんな考え方も聖書理解に持ちこんでしまう比喩的解釈の危険性が指摘され、現代に至るまで字義的解釈で聖書を説くべきだと考えられている。
 そして、比喩的解釈とは、文学的解釈における比喩的解釈と理解されているが、それとは違う比喩的解釈があるし、さらには霊的解釈というものも存在する。

 字義的解釈と比喩的解釈のどちらとも言えず、どちらも成立する場合があると私は思う。カトリック的な比喩的解釈をしないと言いながら、では自分たちは絶対に比喩的解釈をしていないかというと、そうは断言できない。

 聖書の正典として『雅歌』が入っているが、それを字義的解釈のみで理解するのは無理がある。

 聖書解釈ということを、キチンととりあげてない限界がそこにはある。本当の聖書解釈というものは、いまだにない。学者が研究しているだけ。 
 教父のように聖書を理解してよい。ただ教父は、聖書から離れ過ぎる危険性があった。

(3)キリスト教と国家
 4世紀に、キリスト教は公認され、同世紀後半に国家宗教となった。これが与えた影響はじつに大きい。国家と宗教はきわめて根本的なことで、いま日本でも宗教法人化というかたちをとって影響を与えている。

 東方は西方ほど、聖と俗を分けないで進んできた。聖俗の二分方は、西方教会の特徴である。東方の国は、政治権力のトップ(皇帝)と、宗教界のトップは同一人物であった。
 アウグスティヌス以降、西方は歴史観、歴史哲学が発達するが、東方にはそのようなものがあまりない。地上と天上の歴史を分けて考えていない。
 東方正教は、共産主義を超えて長い命をいまも保っている。

(4)教派という考え
 日本のプロテスタントには教派という考えが根強いが、ヨーロッパではそういう意識が少ない。キリスト教がアメリカで発展し、そこで教派という考えが強化され、それが日本に持ち込まれたことに要因があると思われる。そこで、日本のプロテスタント内は教派意識が強い(日本のプロテスタント内で一つの教会という意識が弱い)。

 ヨーロッパでは、教派がいくつかに分かれていても、基本的に教会は一つという考えが浸透している。

e0079743_1545542.jpg(5)三位一体論
 教父たちはたいへんな苦労をして、異端に対抗して聖書の神を説明しようとした。そして三位一体をパーソナルに理解していた。それを言葉で理解するのは難しい。

 やっとできあがった理論なので、プロセスを理解することが重要だ。後世の理解の仕方を持ち込んで説明するより、聖書のなかで理解する必要がある。
 教理、思想としてではなく、聖書の言葉のいのちに戻って理解する必要がある。

(6)プロテスタントの中にも修道制が存在する
 いろんな運動が教会の中から派生して、教会はダイナミックな力を生み出してきた。教会の中だけにとどまらないためには、外へと向かう自発的なグループが必要になってくる。それをなくすとキリスト教の将来はないと思う。

 カトリック教会では修道会、プロテスタントでは超教派運動がそれにあたるのではないか。プロテスタントは修道会をなくしてしまったが、超教派運動がそれを受け継いでいるとも言える。どう協力関係を強めていくかが大事になる。

(7)ストーリー(物語)としてのヒストリー(歴史)
 古代は、今のように信徒が聖書を読んでいたのではなく(本がなく、聖典も成立していなかった)、口頭で聖書が読まれ、聴衆がそれを耳で聞いて、物語として受け入れていた。
 ヒストリーとなると難しくなるが、ストーリーとしてのヒストリーは誰にでも伝わりやすい。

 ストーリーは「再現する」という性質がある。この機能が大切。頭の中で再現するときに、迫真性をもってせまってくる。ストーリーテラーという役目が大切になってくる。
 ローマ書でさえ、書かれたというより語られたもの。パウロが口述して秘書に筆記してもらった。その証拠に、口述しながら興奮してきたパウロが、「アーメン」と、いつのまにか祈りになる箇所が出てくる。

(8)日本人としての霊性
 日本の異教的な霊性を用いて、福音理解に役立て、深めることができないかという問いがあるが、難しい面がある。
 すでにキリスト者がキリスト教用語として使っている言葉は、日本の宗教や古い日本語からもってきているものが多い。それを聖書の意味で使っている。「神」「神学」「説教」「愛」「霊」(「礼拝」も? 仏教では「らいはい」と読む。「祈り」「祈祷」などもそうですよね。)など、明らかに、もともとは異教の言葉だった。

 そこで聖書を読むとき、キリスト者も非信者も、別なニュアンスで受け取ることがある。相手になんとか伝えたいとしても、自分たちの中にある日本文化をよく理解していないと、伝えたくとも伝わらない。まず、自分たちを理解してから、外のものを理解することが肝要だ。しかし、自分たちのことさえ、まだよく理解てきていないのが現状だ。

(9)私の個人的な質問
 講演が終わった後、質問したい人の列が少しできた。私も並んで質問した。

 私:「『心』『思い』『たましい』『知性』などの意味を、しっかり区別できる定義、用法が明確でないので、翻訳するときに、えらいやっかいです。なんとかならないでしょうか?」

 先生「そうんなんです。原語でもあいまいで、はっきりしていないのです。問題は、聖書が書かれてた後の時代の考え方、思想で分類、理解してしまうことです。これも、聖書にそって理解することが大切になってきます」

 ということでした。う〜む。ここでも聖書全体を読むこと、いろんな言語で読むことの大切さを再確認できました。

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