宗教改革が当時の市民に与えた影響とは


e0079743_1325362.jpg 昨年後半は、新刊書の原稿読みのために、ほとんど読書から遠ざかってましたが、昨年からぼちぼち読み始めたものに『宗教改革の真実』(永田諒一著 講談社現代新書 04年)というものがあります。(リンク先アマゾンの読者評もご参照を)

 副題が「プロテスタントとカトリックの社会史」とありますが、この「社会史」とは比較的新しい学問のようです。あまり変化の大きくない日常生活の考え方、観念、市民生活の姿を文献研究するようです。

 私にとって興味深かったのは、「宗教改革を推進した言われる活版印刷本はどれほど読まれたのか」「聖像、聖画破壊運動の実際」「改革後の修道士や聖職者の結婚」「宗派の異なる男女の結婚」「グレゴリウス暦導入の際の混乱」などに関係することでした。新書判なので、それほど多くの事例に触れてないし、地域も限定されるのですが、ドイツの市民生活に及ぼした影響の一端に触れることができました。

 著者は、当時、まだ「ブロテスタント」という宗派が確立していない変革期をとりあげているので、「宗教改革派」という用語で統一して書いています。修道士だったルターをはじめ、この改革はカトリック教会内の運動だったわけですからね。

「へえー、そうなんだ」と思うことが多々ありました。まあ、500年前の話ですが・・。そのなかから、いくつか拾ってリストにしてみました。

 ○ルターによる「95ヶ条論題」(1517年)は、教会の扉に貼り出してはいない。
  最近の高校の歴史教科書には、「発表した」「公表した」とあるだけ。

 ○「メインカルチャー」「サブカルチャー」の語源は、ラテン語を読めた教職者と、
  読めない民衆の違いにあった。「エリート」もラテン語を読めた層を指した。

 ○カトリック側は改革時代、活字文書の普及に消極的だった。手書きを尊重した。
  日本でのワープロによるプリント文字が普及したときのような反応を示した。

 ○グレゴリウス暦(現在の暦)導入は、カトリック側が先導し、改革派がしぶしぶ
  受け入れた。

 ○当時崇敬を集めていた聖遺物をまつった教会があったが、たとえばイエスの骨は、
  ヨーロッパ中を集めたら千人分(!)くらいになっただろうと言われている。

 ○ドイツでのある都市では、熱心な聖画像寄進者が改革の波を浴び、熱心な破壊者
  にもなった。

 ○ルターの結婚相手は、改革運動で修道院を出た修道女のうち、なかなか結婚相手
  が決まらなくて困っていたカテリーナと結婚した。(女性側に問題があったので
  はない。)当時の修道院を辞めた女性は、独身で生活するのは困難だったので
  結婚が奨励された。

 ○当時、修道士、修道女という道の選択は、出世コースを求めた下層階級出の才能
  ある男性や、結婚先が決まらない貴族や富豪の娘たちの就職先にもなっていた。

 ○1569年、カトリックのケルン大司教区で調査をしたところ、ある地域では、
  聖職者の三分の一に、「ファムーラ(女召使い)」と呼ばれた内縁の妻がいた。 

 ○ドイツ農民戦争(1524-25)が終息した1525年以降は、それまで民衆の運動
  だった宗教改革は衰退し、君主や都市政府(権力者、行政家)が担った。

 ○ルターによる論題発表(1517年)から約40年後の1555年成立『アウクスブルク
  宗教和議』以降は、市民レベルの運動、騒乱は不可能になり、君主、領政府が
  改革の主導権を握り、弾圧もした。

 ○農民戦争を鎮圧(1525年)したドイツ語圏の権力者は、自分の都合に合わせた
  宗派政策をとり、それを民衆に押し付け、権力と結びついた教会制度の強化をは
  かった。(国家権力とキリスト教の結びつきのルーツの一つがこれなんですね。
  市民レベルの運動は10年ももたなかった。)

 ○16世紀半ば当時、ドイツ語圏では60あまりの都市国家で、カトリックと改革派が
  共存していた。


 どうですか。なかなか興味を引きませんか? 先入観の修正を迫られる点がいくつか私にはありました。500年前の話ですが。

 詳しいこと、正確なことは本書をご覧ください。間違いはご指摘ください。
 次回は、グレゴリウス暦導入の際の混乱を取り上げる予定。
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