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キリスト教への二元論の混入─その3

(3)肉体と霊という考え方に混じる二元論(人間論)
 ヨーロッパの中世のキリスト教文書などによく見られる禁欲生活があります。この世での世俗的な生活から逃避することが、より神に近く、霊的であるという理解があったようです。
 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』は、現在でもよく読まれてるいますが、神を一途に求める素晴らしい内容であるものの、中世の禁欲的な修道生活を反映して、二元論的な価値観が強く出ているように思います。どう思われますか。

肉(体)の軽視
 新約聖書のパウロの手紙の中に、霊と肉の思いの戦いについて書いてあります。それを二元論的にとらえると、肉的なものを敵視したり、嫌悪したりするようになり、禁欲が推奨されるようになってきます。すると、霊的な生活をおくるためには、肉欲、情念、無意識などの存在を認めないか、抑圧するか、隠してしまうという霊性に傾いてしまうでしょう。また、身体、精神と魂を別々のものとして考えるようになってしまいます。

 人間のもつ霊的なものと肉的なものを別々なものとすると、精神性、知性、理性、霊的存在のみを重視することになり、肉体は一時的な住まいにすぎず、やがて滅ぶのであるから、霊の救いのみに価値を認めるという傾向になります。やがて死を迎えて天国に行き、肉体から解放されることが最高善となるわけです。

 こうした傾きは、私たちの日々の平凡な日常生活は低次元であり、価値がなく、時間の無駄という思いを生みます。フルタイムの教職者を目指すことが霊的で、この世の職業につくことは二流だと考え、この世での生活をあまり重視しなくなります。また芸術活動も、直接、霊的なことに言及したり、明示しないものであると、この世的で、価値が薄いものと考える傾向を生むようになります。

正しく用いることによる祝福
 パウロが霊と肉の葛藤ということで教えているのは、霊的な思いに支配されることと、肉の思いに支配されることの対比を述べ、肉の思いをコントロールしなさいと言っているにすぎません。神が創造した身体は、本来良いものであり、正しく用いるときに祝福され、大いに楽しむべきものとして与えられています。

 エバが罪を犯したのは、禁断の実が目にうるわしく、おいしそうに感じたからということで、人間のもつ五感のもたらす感覚を軽視/抑圧する人も出てきます。しかし、肉体そのものや感覚そのものは悪ではありません。どのような思いで、それらを正しく用いるかが大切になってきます。五感は神の造られたものであり、美しいものを見、聴き、味わい、触れたり、香りを楽しんだりすることは、神の創造したものの素晴らしさを讃え、神を存在を認める手段となります。

イエスは霊と肉の統合した生活をされた
 イエスは、福音を宣べ、悪霊を追い出し、病人を癒しましたが、地上に住み、食べ、飲み、寝たり、起きたり、歩いたり、怒ったり、悲しんだり、涙を流したりなさいました。罪人と会食したり、結婚式のパーティにも出席しました。
 人間が直面するあらゆる誘惑にもあいましたので、人間の弱さをすべてご存知です。当時の聖なる場所や行事には、たまにしか参加しませんでした。むしろ、ご自分の弟子たちや、地位ある人から嫌われた罪人と日常生活を共にしました。

 すなわち神は、いわゆる霊的な、狭い意味での宗教的体験のみに目を向けているのでなく、生活全体を大切に思われています。私たちに与えられた個性や肉体的な機能を正しく発揮し、実践する人間的な行為や営みを祝福してくださっています。