読書:アウグスティヌス『告白』読破を目指して

 西洋音楽のすべてが、音楽の父バッハから流れ出ているように、あらゆるキリスト教の思想の源泉、流れ出てくる泉がアウグスティヌスと言われています。
 キリスト教の教父による古典中の古典、キリスト教霊性の父、基本とも言えるアウグスティヌスの著作。なかでもとくに有名な『告白』(紀元400年)を、最近また読み始めました。

 この本は、過去何度も読もうとしては挫折した書物です。手にとっては途中で投げ出す---の繰り返しで、本棚に並べておいたままでした。そのうち読まなければと思いつつ、何年も過ぎてしまいました。そんな本って、誰にも本棚にいくつかありますよね。わたしが持っている本は、服部英次郎訳(岩波文庫)と山田晶訳(中央公論社)です。
 数年前、カナダのリージェント・カレッジの教授、ジェームス・フーストン氏が来日したおり、その講義をむさぼるように聴きました。そのとき、「日本と西洋のキリスト教の基盤の違いは、日本にアウグスティヌスがいないということです。彼の『告白』と『詩編講解』を読むといい」と言われた言葉が心に残りました。

 しかし、読みにくい。古文書を翻訳したから当然と言えるのか、とにかく訳文がわかりにくい。しかも活字が小さい、分量が多い、話の展開がのろい、古文ゆえか独特の文体・・・と、人を寄せつけない壁がいくつもそびえ立っているかのようです。内容は豊富で、神、時間、存在、記憶、親との関係、夢、恩寵、休息、認識論など、よくもこんなふうに書けるなあと思えるほど、くどくどと述べられています。e0079743_175936.jpg

 たとえばこんなふう。
あなた(神)は、愛しながら熱することはなく、ねたみながら苦しむことなく、悔いてしかも悲しむことなく、怒ってしかも心安らかであり、みわざを変えながらみ心をかえられることがない。--略-- あなたは何の不足もないのにもうけを喜び、決してむさぼることがないのに利子の取り立てをなさる。--略-- あなたは、だれにも負うことがないのに、負債を払い、負債を返して、何ものも失うことがない。(第1巻第4章4 服部訳)

 わたしは、主に向き直ることをためらって、あなたのうちに生きることを日一日と延ばしていたが、日々わたし自身のうちに死ぬことは延ばしてはいなかった。わたしは、至福の生を愛しながら、その本来のありか(神)にある至福の生をおそれ、至福の生から逃れながら、それを求めていた。(第6巻第11章20 服部訳)
 なるほどね。何度か読みかえさないと分かりませんが、うまく言いあらわすもんですね。
 おそろしく分かりにくい訳文としては、以下の例があります。
わたしは日々募る苦しみのうちにあって、平生の業務を営み、日々あなたに(神)むかってあこがれ、その重荷に圧せられていた仕事に閑暇があるごとにあなたの教会を訪れた」(第八巻16章12の冒頭 服部英次郎訳 岩波文庫)
 読んでいて、意味がわかりません。こんな堅苦しい訳にしなくてもいいでしょうに。
 山田晶訳で、同じ箇所がこう訳されています。
私はいつもの生活を続けていましたが、不安はつのるばかり、日ごとにあなたをあえぎもとめながら、仕事の重圧にうめきつつ、あいまをみては、あなたの教会をしげしげと訪れていました。(同 山田晶訳)
 こちらのほうが、ずっと分かりやすいですね。ただし、山田訳のほうは、「〜したもう」「まします」とかの神への尊敬をあらわす言い方が、わたしには古めかしく、慣れていないので、意味がぼやけてしまうところがあるのが少し残念。

 このキリスト教界の至宝とも言うべき書物を、日本の現代のキリスト者の誰もが読めるような「超訳」で出してくれないのでしょうかね。もっと活字を大きくし、持ち歩きに便利な判型にしてほしい。そのうち電子出版になって便利な時代が来るかも知れませんが・・・。
 そこまで待っていられないわたしは、難解なところがありますが、持ち歩きに便利な岩波文庫(上、下二巻)を通勤電車に持ち込み読んでいるところです。難解な箇所は、あとで山田訳を参照することにしたいと思います。
 現在、第8巻まできました。もう少しで、窓辺での母との最後の会話と母の死を回想する、たいへん有名な美しい箇所にさしかかるので楽しみ。
 果たして読破なるか・・・・。経験のある方、アドバイスを!
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